「完全超悪(かんぜんちょうあく)」
民明書房刊『暗黒・乙女略奪史 ― 絶望が生んだ真の魔性 ―』によれば、かつての悲劇のヒロインであった「百合城」の生き残りたちは、極限の飢餓と絶望の果てに、人類史において類を見ない特異な精神構造へと至ったと記されている。
それが、勧善懲悪ならぬ**「完全超悪」**――自らを「絶対的な被害者」と規定することで、あらゆる残虐行為を聖戦へと昇華させた、救いようのない悪の極致である。
完全超悪 ― 聖域なき「弱者」の暴走
「百合城」を追われ、森に潜んだ「ネコ(受けの娘)」たちは、やがて生きるために近隣の村々を襲撃し始めた。しかし、その手口は金品を奪うだけの野盗とは決定的に異なっていた。彼女たちの暴力には、「かつての自分たちと同じ弱者」を徹底的に蹂躙することで、自らの過去の痛みから逃避しようとする、倒錯した情熱が宿っていたのである。
1. 弱者による弱者への「際限なき虐げ」
彼女たちは略奪の際、屈強な男たちではなく、抵抗力の乏しい女子供を優先的な標的とした。その心理的背景について、同書は以下のように分析している。
「彼女たちは信じていた。自分たちは世界で最も不当に傷つけられた存在であり、ゆえに何をしても許される『特権的弱者』であると。その目に映る無垢な子供や平穏な婦人の姿は、失われた自分たちの『かつての潔白』を突きつける耐え難い侮辱であった。彼女たちは、その純粋さを血と泥で汚し、絶望に叩き落とすことでしか、自らの存在を肯定できなくなったのである。」
この「自分こそが被害者である」という強固な自意識が、歯止めのない残虐性を生み出した。子供を親から引き離し、女たちの尊厳を組織的に破壊するその姿には、敵軍による凌辱を生き延びた者ゆえの、**「地獄を熟知した者による完璧な拷問」**が凝縮されていた。
2. 野盗すらも戦慄した「弁護不能の悪」
驚くべきことに、当時その一帯を縄張りとしていたプロの野盗たちでさえ、彼女たちの集団を「汚らわしき悪魔」として忌み嫌ったという。ある老練な野盗の首領が遺した手記には、次のような言葉が刻まれている。
「俺たちは欲のために殺すが、あの女たちは違う。彼女たちの目には、奪う喜びさえ宿っていない。ただ、自分たちが味わった以上の苦痛を世界にばら撒くことだけを『義務』だと信じ込んでいる。子供の命乞いを鼻で笑い、母親の悲鳴に『私たちも同じだった』と淡々と答えるその姿は、悪党の風上にも置けぬ。あれこそが、弁護の余地すら塵ほども残っていない、真の**『完全超悪』**だ。」
彼らのような「法の外の住人」でさえ、最低限の矜持や生存のための合理性を持っていた。しかし、自らを「正義の被害者」と任ずる彼女たちには、交渉も情けも通じなかった。奪う必要のない命を奪い、燃やす必要のない家を燃やす。それは、生存戦略を超えた「復讐という名の娯楽」であった。
3. 現代への影:被害者の仮面を被った加害者
この「完全超悪」の故事は、現代の地政学的な紛争や社会問題においても、極めて不吉な予言として引用される。
過去に凄惨な迫害を受けた民族や組織が、その記憶を盾にして、他者に対して際限のない暴力を正当化する姿。あるいは、ネット社会において「自分は叩かれた側だ」と主張する者が、その旗印のもとに特定の個人を徹底的に社会から抹殺しようとする現象。これらはすべて、百合城のネコたちが陥った「弱者の免罪符」という名の魔性に通じている。
彼女たちは、自分たちが受けた傷の深さを測る「ものさし」を失い、他人の血を流すことでしか、自分の傷が癒えたかどうかを確認できなくなったのである。
弁護の余地なき「純粋な悪」
歴史家たちは後に、この集団をどう定義すべきか苦悩しました。しかし、民明書房の編纂者は一言、こう断じました。
「彼女たちの行為に、もはや弁護の余地は微塵も存在しない。かつて受けた傷は深いだろう。だが、それを他者の肉体で埋め合わせようとした瞬間、彼女たちは聖域を失った『完全なる超悪』へと堕したのである。」
(民明書房刊『闇の解剖学 ― 怨念が産み落とした怪物たち ―』より)
”「弱者が弱者を挫く時、そこに慈悲の入る隙間は一分も存在しない」”
民明書房より。




