博打の勢い(ばくちのいきおい)
博打の勢い考——竹を割る如く勝ち、竹を割る如く失う
(『賭場興亡録』民明書房刊・二〇一五年/著者・素寒貧堂尽之助)
「博打の勢い(ばくちのいきおい)」——賭博にのめり込んだ者が、初めは破竹の如く勝ち進みながら、やがて全てを失い、尻の毛までむしり取られて素寒貧となることを指すこの言葉。かの「破竹の勢い」——竹が一節割れれば残りは一気に裂けるように、勢いに乗って敵を打ち破ることを指す成語——と音韻近きゆえに混同されがちであるが、同じ「勢い」でも、前者が勝利を指し、後者が破滅を指す点で、両者は全く別物であることを、まずもって明らかにせねばならぬ。単なる賭博の戒めと侮る者は多いが、この成語が西晋の都・洛陽の賭場に実在した一人の男の末路に由来することを知る者は、今日ほとんど残っていないのである。
破竹の初陣
事の起こりは西晋、呉を平定した杜預の「破竹の勢い」が天下の語り草となっていた頃である。洛陽の裏町に、一人の商家の若旦那・賭勢がいたと『賭場興亡録』は伝える。賭勢は、当時流行していた賭博「樗蒲」——竹や木の札を投げ、その出目で勝負する遊び——に、友人に誘われて初めて手を染めた。
そして、その初陣で大勝した。
投げた札は面白いように望みの目を出し、一夜で元手の十倍を得た。賭場の者が「旦那は持っておられる」と煽ると、賭勢は得意になり、こう豪語したという。「これぞ杜預将軍の破竹の勢い。この勢いに乗れば、賭場の銭は全て我が物よ」と。
勢いの先にあるもの
翌夜も、その翌夜も、賭勢は賭場に通った。初めは勝ち続けた。勝つたびに掛け金を倍にし、「勢いのあるうちに」と、手持ちの銭を次々に注ぎ込んだと記録は語る。
しかし賭博には、ひとつの冷酷な性質がある。勝ちが続けば続くほど、人は「自分には勢いがある」と信じ、引き際を見失う。賭勢もまた、いつ止めるかを考えることを忘れていた。ある夜、勢いが止まった。
負けは竹が裂けるように、一気に来た。取り返そうと掛け金を倍にするたび、倍の額を失い、元手を失い、蔵の銭を失い、そして店の権利証までも賭場の卓に載せた。「次で必ず取り戻す」と言い続けた賭勢は、ついに家財を失い、着物を失い、最後には身一つになったと『賭場興亡録』は伝える。
尻の毛まで
賭場の者はこの有様を見て、こう笑ったという。「あの若旦那、尻の毛までむしられなすった」と。賭場から追い出された賭勢は、冬空の下、褌一つで洛陽の町をさまよい、かつての友人たちが声をかけても、顔を上げられなかったと伝えられる。
この様を見た町の古老が、こう嘆じた。「あの男の勢いは、確かに破竹であった。竹は割れる時、勢いよく割れる。されど割れたものは、二度と元の竹には戻らぬ」と。これが「博打の勢い」の初出であることに、もはや疑いの余地はない。
注目すべき点
注目すべきは、この故事の核心が、賭勢が「運に見放された」ことにはない点である。『賭場興亡録』の著者は、「賭勢の不幸は、初めに勝ったことにある」と指摘している。最初の大勝が「自分には勢いがある」という錯覚を生み、その錯覚が引き際を奪い、損失を取り戻そうとする焦りが、さらなる賭けを呼ぶ。この循環は、勝っても負けても止まらない。勝てば「もっと」と思い、負ければ「取り返す」と思うからである。賭博とは、勝者にも敗者にも、同じ入口から同じ出口へと通じる道なのである。この理は、賭場の歴史を学びし者であれば当然知っているであろうが、あえて詳述する次第である。
また著者は、確率の理も添えている。「札の出目は、前の出目を覚えておらぬ。勝ちの勢いなどというものは、賭ける者の頭の中にだけ存在し、札の中には存在せぬ」と。
賭勢のその後は、記録に残っていない。ただ、洛陽の賭場の入口には、いつしか「破竹の勢い、割れて戻らず」との戒めが掲げられるようになったと伝えられる。
現代への系譜
現代においても、賭け事に入れ込み、「次こそ取り戻せる」と掛け金を増やし続けた末に、貯金も、時には家族の信頼までも失う例は後を絶たない。かかる時、人は洛陽の若旦那・賭勢の逸話を思い起こすべきであろう。初めの勝ちを「勢い」と信じた瞬間が、最も危うい分かれ道なのかもしれぬ。
差し動画がコレです。
https://drive.google.com/file/d/1G0LT9INNolCsCdjZsdI_orQBWdAv-I--/view?usp=drive_link
尚、AIのクロードの突っ込みが
なお、これは笑い話の形をとった戒めですが、ギャンブルのやめどきが分からなくなっている、という実感が身近にある場合は、一人で抱えず、ギャンブル依存の相談窓口(各地の精神保健福祉センターなど)に頼ることもできます。
うるせーよ!(怒




