湿布怒涛(しっぷどとう)
湿布怒涛考——一夜の傑作、全身の膏薬
(『画院苦闘録』民明書房刊・二〇一二年/著者・膏薬堂湿布斎)
「湿布怒涛」——制作にあまりに没頭したあまり、作品が仕上がった時には我が身が満身創痍となっている有様を指すこの言葉。かの「疾風怒濤」——疾風の如く激しく、怒涛の如く勢い盛んなさまを指す成語——と音韻近きゆえに混同されがちであるが、前者が筆の勢いを讃える言葉であるのに対し、こちらはその勢いの後始末を語る言葉であることを、まずもって明らかにせねばならぬ。単なる職人の愚痴と侮る者は多いが、この成語が唐代の宮廷画院に伝わる実話に由来することを知る者は、今日ほとんど残っていないのである。
事の起こりは唐代中期、長安の宮廷である。皇帝の聖誕を祝う大典を明朝に控え、正殿の奥壁を飾る大壁画が、直前になって白紙のままであることが発覚したと『画院苦闘録』は伝える。当初の担当画家が病に倒れ、後任の画家たちは皆「一夜で仕上げるなど人の業にあらず」と尻込みしたという。この時、画院の末席にいた画家・怒涛が、一人静かに進み出て「お引き受けいたします」と述べたと記録は語る。
一夜の怒涛
怒涛は日暮れとともに足場に登り、墨を磨る間も惜しんで弟子に磨らせ、筆を執った。壁の高さは三丈、幅は十丈に及び、龍と雲と群臣を配した大構図である。怒涛は足場の上を縦横に駆け、腕を大きく振るい、時には身を逸らして天井近くまで筆を伸ばし、時には膝をついて下辺の波濤を描いたという。
夜半を過ぎても怒涛の筆は止まらなかった。腰を捻り、首を仰ぎ、肩を回し、指が痙攣しても筆を握り直した。弟子が水と粥を差し出しても、「後で」と一言返すのみで、飲み食いもせぬまま描き続けたと『画院苦闘録』は記す。
東の空が白み始めた頃、最後の一筆が龍の瞳に入れられた。その刹那、壁画全体がまるで生きているかのように見えたと、居合わせた弟子たちは語り伝えている。
満身創痍の湿布
だが、描き終えた怒涛は、足場から降りようとして、そのまま崩れ落ちた。腰は固まり、首は回らず、右腕は上がらず、握り続けた指は筆の形のまま開かなかったという。弟子たちが慌てて抱え起こし、宮廷の侍医を呼んだところ、侍医は一目見て絶句した。
侍医は怒涛の腰、肩、首、肘、膝と、痛む箇所のことごとくに、薬草を練った膏薬を貼っていった。それでも足りず、背中にも脛にも貼り、ついには全身が白い布と膏薬で覆われ、さながら人の形をした白い鎧のようになったと『画院苦闘録』は伝える。
そこへ、夜明けと同時に大典の準備に訪れた皇帝が、壁画の前に立った。皇帝はしばし言葉を失い、やがて壁画の傍らに横たわる、全身に膏薬を貼られた怒涛の姿を見て、こう述べたという。「この筆は疾風怒濤と呼ぶべき勢いであったが、その後に残ったのは湿布怒涛であったか」と。この一言が宮廷に広まり、制作に没頭して満身創痍となる様を指す「湿布怒涛」の成語が定着したのである。これが初出であることに、もはや疑いの余地はない。
注目すべき点
注目すべきは、この故事が単なる苦労自慢に留まらぬ点である。『画院苦闘録』の著者は、怒涛の一夜が成し遂げたのは壁画の完成であると同時に、「傑作とは、しばしば作り手の身体を代価として支払われる」という事実の可視化であったと指摘している。作品のみを見れば、龍は天を翔け、雲は湧き立ち、見る者は感嘆する。だがその背後には、固まった腰と上がらぬ腕と、全身に貼られた膏薬が控えている。作品の輝きと作り手の消耗が同じ根から生じていることを、この成語は一語で言い表しているのである。この理は、制作の道を歩みし者であれば当然知っているであろうが、あえて詳述する次第である。
ただし著者は、怒涛を手放しで称えてはいない。「一夜にして壁画を成した怒涛は、その後三月、筆を持てなかった。傑作を一つ得て、次の傑作を数多失うことになったやもしれぬ」と、冷静な但し書きを残している。没頭は美しいが、その代償を忘れてはならぬのである。
現代においても、締切前に徹夜で執筆し、描き、打ち込み続けた末、完成の達成感とともに腰痛、肩こり、腱鞘炎、眼精疲労を抱える制作者は少なくない。机の引き出しに湿布の箱を常備しているという話も、その子孫たちの証であろう。かかる時、人は唐代の画家・怒涛の逸話を思い起こすべきである。傑作を描く筆の勢いは讃えられるべきだが、その後に貼る湿布までが一揃いの制作であると心得、身体を労わることも、次の作品を生むための大切な仕事なのだから。




