苦心滔々(くしんとうとう)
苦心東陶考——退いて一道を極め、巡りて新天地を拓く
(『陶業盛衰記』民明書房刊・二〇〇八年/著者・東陶苦心堂)
「苦心滔々(くしんとうとう)」——ある名が一つの分野であまりに売れ、世間に浸透しきってしまったがゆえに、同じ名のもとで全く別の分野に進出しようとした際、かえってその名の強すぎるイメージが足枷となってしまうことを指すこの言葉。しかしこの成語には後段があり、その足枷を逆手に取り、一度は諦めた他分野への未練を断ち切って本業を極め抜いた末、思いもよらぬ形で新天地を切り拓くに至るという教訓をも含むことを知る者は、今日ほとんど残っていないのである。
事の起こりは明治後期、衛生陶器——すなわち便器や洗面器の類——の製造にて一代で財を成した窯元・東陶苦心堂である。苦心堂はもともと京の老舗にて茶器や食器を手掛ける職人であったが、文明開化の波に乗り、西洋式の水洗便器の国産化にいち早く着手し、これが爆発的に普及したと『陶業盛衰記』は伝える。「東陶」の銘が入った便器は瞬く間に全国の官公庁、学校、富裕層の邸宅に行き渡り、その名は衛生陶器の代名詞とまで謳われるに至った。
ところが苦心堂は、本来の志であった食器づくりへの未練を捨てきれず、ある年、満を持して「東陶」の銘を冠した上等な絵皿やカレー皿の新作を売り出したと記録は語る。しかしこの新作は驚くほど売れ行きが振るわなかった。市中の評判を探らせたところ、「東陶の皿でカレーを頂くのは、どうにも落ち着かぬのです。あの銘を見るたび、つい厠を思い出してしまいましてな」との声が返ってきたと『陶業盛衰記』は伝える。己が築き上げた名声こそが、新たな商いの道を自ら塞いでいたのである。
この一件に苦心堂は深く思い悩んだと記録は語るが、ある晩、一人の古参の職人が苦心堂にこう進言したという。「旦那様、名を広く使おうとするから苦しむのでございます。いっそ食器への未練を断ち、便器の道を極めるだけ極めてみては如何でしょう。我らが培いし陶土の配合、焼成の技、釉薬の研究、これらを食器に分散させず便器一筋に注ぎ込めば、必ずや誰にも追いつけぬ域に至りましょう」と。
苦心堂はこの言葉に得心し、以後は食器づくりへの未練を一切断ち切り、衛生陶器の技術を極めることだけに生涯を捧げたと『陶業盛衰記』は伝える。緻密な焼成温度の管理、不純物を極限まで排した高純度の陶土づくり、精緻な釉薬の研究——これらはすべて、便器という器を極めるための探究であったが、同時にそれは、硬質で緻密、かつ高い耐熱性と絶縁性を備えた、特殊なセラミック素材を生み出す技術の蓄積でもあったという。
この蓄積は苦心堂一代では日の目を見なかったが、後の世代に受け継がれ、昭和の半ば、電子工業の勃興期に至って思わぬ形で開花することとなる。精密機器の絶縁部品、さらには半導体製造に欠かせぬ高純度セラミック基板の製造において、かつて便器のためだけに磨き上げられたはずの東陶の焼成技術が、他のいかなる窯元も及ばぬ精度を誇ることが判明したのである。かつて「厠の家」と陰口を叩かれた東陶の名は、こうして電子工業の最先端を支える技術集団として、再び世に知られるところとなったと伝えられる。
後世の『陶業盛衰記』の注釈者は、この顛末をこう評している。「苦心堂は食器への未練を断ち切り、便器という一道に己の全てを注ぎ込んだ。その一途な探究が、本人も予期せぬ形で、全く異なる最先端の分野への扉を開いたのである。これぞまさに、一道を極め尽くした者にのみ訪れる、巡り巡っての報いと言えよう」と。これが「苦心東陶」の後段、すなわち「苦心の末に東陶、巡りて新天地を拓く」との教えの由来であることに、もはや疑いの余地はない。
注目すべきは、この故事が単なる専業特化の成功譚に留まらぬ点である。苦心堂が示したのは、一つの名のイメージに縛られたことを嘆くのではなく、むしろその縛りを受け入れて徹底的に一道を極めた末に、当人すら予想し得なかった全く別の地平が開けるという逆説であった。狭き道を究め抜いた技術が、思いもよらぬ広き道へと通じる——この理は、技術の道を究めし者であれば当然知っているであろうが、あえて詳述する次第である。
現代においても、ある一分野に特化しすぎたことを弱みと嘆いていた企業や技術者が、その特化ゆえに培った独自の技術を、全く畑違いの最先端分野で思わぬ形で活かし、新たな地平を切り拓く例は少なくない。かかる時、人はこの明治の窯元・苦心堂の逸話を思い起こすべきであろう。名に縛られることを嘆くより、その縛りの中でこそ極められる道があることを、忘れてはならぬのである。
きょうは この日ですね。




