何行苦行(なんぎょうくぎょう)
何行苦行考——たった数行に、刻まれる苦悶の跡
(『文士艱難録』民明書房刊・二〇〇四年/著者・筆硯堂何行)
「何行苦行」——執筆という営みの辛さを表す言葉であり、たとえわずか数行を書き進めるだけであっても、そこに至るまでに作者が味わう苦心惨憺の度合いは、何百行を書くのに等しいほどであることを指すこの言葉。かの仏道における「難行苦行」——悟りを得るために肉体を苛む厳しき修行——と音韻近きゆえに引用されがちであるが、両者はその対象を全く異にすることを、まずもって明らかにせねばならぬ。
事の起こりは明代、科挙を目指して文章修業に励んでいた一人の書生・筆硯堂何行である。何行は幼少より文才ありと評されていたが、いざ机に向かい一篇の文を仕上げんとすると、たった一行を書くにも幾刻も筆が止まり、幾度も書き損じては反故を積み上げるという有様であったと『文士艱難録』は伝える。
ある時、師匠が何行の書斎を訪れ、机上に積まれた夥しい反故の山と、その傍らにようやく書き上がった、わずか五、六行ばかりの文章を目にしたという。師匠が「これだけの反故を出しながら、仕上がったはこれほど僅かか」と訝しむと、何行はやつれた顔でこう答えたと記録は語る。「師よ、この五、六行に至るまで、幾たびも言葉を選び直し、幾たびも組み立てを崩しては作り直し、夜を徹して己の浅学を呪い続けました。行の数こそ少なけれど、この一行一行には、幾日もの苦悶が刻まれておりまする」と。
師匠はこの言葉に深く頷き、こう述べたと『文士艱難録』は伝える。「仏道に難行苦行あるがごとく、文士にもまた何行苦行あり。行の多寡をもって労苦を測るべからず」と。これが「何行苦行」の初出であることに、もはや疑いの余地はない。
注目すべきは、この教えが単なる筆無精への同情を説くものではない点である。何行が示したのは、創作における苦労というものが、完成した分量と必ずしも比例しないという逆説であった。傍目には僅かな行数にしか見えずとも、そこに至るまでの試行錯誤、言葉を選び抜く煩悶、構成を練り直す苦しみは、外からは一切窺い知れぬものである。この「成果の量と、そこに込められた労苦は別個のものである」という理解は、物を書く苦しみを知る者であれば当然わかることであろうが、あえて詳述する次第である。
何行はその後も寡作な文士として生涯を送ったが、彼の残したわずかな文章は、いずれも推敲の限りを尽くした珠玉の出来栄えであったと伝えられ、後世「寡くして精なり」と評されたという。
現代においても、作家や物書きが、原稿用紙のたった数行を埋めるために机の前で幾時間も唸り続け、書いては消し、消しては書くという苦闘を繰り返す姿は、決して珍しいものではない。かかる時、人はこの明代の書生・何行の逸話を思い起こすべきであろう。書き上がった行数の少なさをもって、その労苦の軽さを測ってはならぬのである。




