葉蘭盤上(はらんばんじょう)
葉蘭盤上考——あれば彩り、なくば困らぬものの理
(『器物閑話録』民明書房刊・二〇〇〇年/著者・葉蘭斎盤上)
「葉蘭盤上」——寿司の皿に添えられた葉蘭の葉の如く、あれば確かに場が引き締まり彩りも増すものの、なければないで特段困ることもない、いわば「あってもなくても大勢に影響なきもの」の例えを指すこの言葉。単なる飲食店の備品を語る些末な話と侮る者は多いが、この成語が江戸期の料理人社会における、ある板前の悟りに由来することを知る者は、今日ほとんど残っていないのである。
事の起こりは江戸後期、両国にて小さな寿司屋を営んでいた板前・葉蘭斎盤上である。盤上は寿司の盛り付けにことのほか拘る男であり、皿の上に青々とした葉蘭の葉を敷くことを己の店の流儀としていたと『器物閑話録』は伝える。ある日、仕入れの都合で葉蘭が手に入らず、やむなく葉を敷かぬまま寿司を出したところ、常連の客が訝しげにこう尋ねたという。「今日はいつもの葉がないが、何か不都合でもあったか」と。
盤上はこの問いに答えようと思案した末、こう返したと記録は語る。「葉がなくとも、寿司の味そのものは些かも変わりませぬ。ただ葉があれば、皿の上がいっそう映えて、お客様の目を楽しませるばかりのこと。つまりはあれば結構、なくとも困らぬものにございます」と。客はこの返答に得心し、「なるほど、葉蘭は盤上の飾りにして、無くば無きで済むものか」と笑ったと伝えられる。
この問答が寿司屋仲間の間で語り草となり、「葉蘭は盤上にあれば良けれど、無くば無きで済むもの」との評判から、「葉蘭盤上」の成語が定着したと『器物閑話録』は記す。これが初出であることに、もはや疑いの余地はない。
注目すべきは、この故事が単に葉蘭という植物そのものを語るものではない点である。盤上が悟ったのは、物事の本質的な価値(この場合は寿司の味)と、それに付随する副次的な彩り(葉蘭)とを明確に切り分ける視点であった。彩りを軽んじるのではなく、さりとてそれを本質と取り違えもせぬ——「本質ではないが、あれば確かに良い」という中庸の位置づけを正しく見極めることこそが、この成語の核心であることは、物事の軽重を弁える者であれば当然知っているであろうが、あえて詳述する次第である。
盤上の店はその後も繁盛を続け、葉蘭を敷ける日は敷き、手に入らぬ日は潔く省くという、ある意味で肩の力の抜けた商いの流儀が評判を呼んだと伝えられる。
現代においても、職場の会議資料に添える凝った図表、贈答品に添える上品な包装、あるいは日々の暮らしの中の細やかな演出など、「あれば確かに良いが、なくても本質的な支障はない」ものは数多い。かかる時、人はこの江戸の板前・盤上の悟りを思い起こすべきであろう。葉蘭盤上を見極める目こそが、物事の優先順位を誤らぬための、静かな知恵なのである。




