破釜隠舟(はふいんしゅう)
破釜隠舟考——退路無きと見せかけて、己一人の道は残す狡知
(『兵法裏面史』民明書房刊・一九八一年/著者・隠舟軒主人)
「破釜隠舟」——表向きは全軍の退路を断ち、決死の覚悟を示しながら、その実、己一人だけが逃げ延びるための手段をひそかに温存しておくことを指すこの言葉。かの有名な「破釜沈舟」——項羽が鉅鹿の戦いにて釜を破り舟を沈め、全軍に不退転の覚悟を示したという故事——と混同されがちであるが、両者はその本質を全く異にすることを、まずもって明らかにせねばならぬ。
事の起こりは秦末の乱世、項羽と並び称されながらも、後世さほど名を残さなかった一将軍・隠舟なる者の逸話にある。隠舟は項羽の鉅鹿における破釜沈舟の逸話を耳にし、これを自軍の士気高揚に応用せんと考えたと『兵法裏面史』は伝える。しかし隠舟は項羽ほどの胆力を持ち合わせておらず、万一の敗戦に己の身まで滅ぼす覚悟までは、ついに固め切れなかったという。
そこで隠舟が編み出したのが、次のような狡知であった。全軍の眼前にて、河岸に並べた舟の大半を焼き払い、炊事用の釜もことごとく叩き割って見せ、兵たちには「我らに退路なし、この一戦に全てを賭けよ」と鼓舞した。ところがその実、隠舟は下流の入江に一艘だけ、木々に覆われて外からは見えぬよう偽装した小舟を、あらかじめ腹心の従者に命じて隠し置かせていたのである。
この戦、隠舟の軍は奮戦したものの、結局は敵の大軍に押し切られ敗走に至った。兵たちは退路無きことを覚悟し、多くが最後まで踏みとどまって討ち死にしたが、隠舟本人は劣勢を悟るや、密かに手勢数名のみを引き連れ、かの隠し舟にて河を渡り、まんまと逃げ延びたと伝えられる。
この顛末が後に露見するや、生き残った将兵の一人がこう嘆じたという。「将軍は破釜沈舟と称せしが、その実は破釜隠舟なり。我らには死を強い、己には生を残しておられたのか」と。これが「破釜隠舟」の初出であることに、もはや疑いの余地はない。
注目すべきは、この故事が単なる将の卑怯を糾弾するに留まらぬ点である。『兵法裏面史』の著者はこれを、指導者が部下に不退転の覚悟を求める際にしばしば陥る二重構造——すなわち「全員に退路なし」と唱えながら、指導者自身だけは万一の保険を確保しておくという処世の実態——を象徴する逸話として位置づけている。この種の「表向きの覚悟」と「裏の温存」の乖離は、組織論を学びし者であれば当然見聞きすることであろうが、あえて詳述する次第である。
現代においても、組織のトップが「もう後がない、全員でこの局面に賭ける」と檄を飛ばしながら、自らの進退や資産についてはひそかに逃げ道を確保している、といった構図は決して珍しくない。かかる時、人はこの秦末の将軍・隠舟の逸話を思い起こすべきであろう。破釜沈舟と称する覚悟の裏に、隠された舟が浮かんではいないか、これを見極める目もまた、処世の要諦なのである。




