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民明書房刊 役に立たないネコのコトワザ図鑑   作者: ロータスシード


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毒書百遍(どくしょひゃっぺん)

毒書百遍考——益なき書物こそ繰り返し繙かるる逆説

挿絵(By みてみん)

(『書肆閑話録』民明書房刊・一九八〇年/著者・毒書堂閑人)


「毒書百遍(どくしょひゃっぺん)」——実用の益にも学問の足しにもならぬ、いわば「毒にも薬にもならぬ」書物に限って、なぜか幾度も繰り返し手に取られ読まれてしまうという逆説を指すこの言葉。かの有名な「読書百遍義自ずから見る」——難解な書も百遍読めば自然と意味が通じてくるという教訓——と音韻近きゆえに混同されがちであるが、両者はその成り立ちを全く異にすることを、まずもって明らかにせねばならぬ。


事の起こりは清代、江南の蔵書家・毒書堂閑人(どくしょどうかんじん)の書斎における逸話である。閑人は生涯にわたり万巻の書を蒐集した稀代の蔵書家であったが、晩年に自らの読書遍歴を振り返り、奇妙な事実に気づいたと『書肆閑話録』は伝える。すなわち、経学・史学の大著、天下の名文と謳われる詩文集——これらの「益ある書」は、一度か二度読めばそれで満足し、以後書架の奥にしまい込んだきり手に取ることがなかった。しかるに、市井で刊行された他愛もない滑稽本や、内容の乏しい怪異譚の類——閑人自身が「毒にも薬にもならぬ愚書」と評していた書物に限って、幾度となく書架から取り出しては繰り返し読み耽っていたというのである。


閑人はこの奇妙な性向を自嘲気味に随筆へ記し、こう述べたと伝えられる。「益ある書は一度読めば事足り、以後は仕舞い込むのみ。しかるに益なき書は、読むたびに新たな莫迦莫迦しさを見出し、飽くことを知らず。これぞまさに毒書百遍なり」と。この一節が江南の文人たちの間で評判となり、実用性乏しき書物ほど繰り返し愛読されてしまうという人間の性を指す成語として定着したのである。


これが「毒書百遍」の初出であることに、もはや疑いの余地はない。注目すべきは、この現象が単なる怠惰や趣味の悪さを示すものではなく、人間の精神構造における必然であった点である。閑人はこれを「益ある書は一度で目的を達するがゆえに反復を要さず、益なき書は目的なきがゆえにこそ、読むたびに違う気晴らしを与え続け得る」と分析している。すなわち実用書が「一回性の道具」であるのに対し、毒書は「反復に堪える娯楽」としての性質を本質的に備えているのであり、この構造の違いこそが両者の再読率を分かつ真因であることは、書物論を学びし者であれば当然知っているであろうが、あえて詳述する次第である。


閑人はこの発見の後、自らの書斎の最も手の届きやすい一角に、あえてこの「毒書」の類のみを集めて並べ替えたと伝えられる。曰く「人の性は争えぬ。ならばせめて手に取りやすき場所に置かんとす」と。


現代においても、実用書や名著は積んだきり読み進まぬ一方、くだらぬ漫画や娯楽小説ばかりを何度も読み返してしまうという経験は、多くの読書人が身に覚えのあることであろう。かかる時、人はこの清代の蔵書家・閑人の述懐を思い起こし、いささかの安堵を得るべきかもしれぬ。益なき書が百遍読まれるのは、決して当人の怠惰のみに帰すべきことではなく、書物そのものの持つ性質に由来する、避け難き人の性なのだから。

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