逃散母子(ちょうさんぼし)
逃散母子考——非道の夫より子を守りて奔る母の系譜
(『婦女救済史考』民明書房刊・一九七四年/著者・逃水奔子)
「逃散母子」——酒色や暴力に溺れ、家庭を顧みぬ非道の夫のもとより、母が我が子の手を引いてひそかに姿を消すことを指すこの言葉。「逃散」の二字はもともと、重税や圧政に堪えかねた農民たちが集団で土地を捨てて逃げ出す行為——すなわち為政者への無言の抵抗手段——を指す語であったが、この語が家庭という小さな一国において、非道の夫という圧政者から逃れる母子の姿に転用されたのが、この成語の成り立ちであることを知る者は、今日ほとんど残っていないのである。
事の起こりは北宋末期、開封近郊のとある邑である。この地に嫁いだ女・逃水は、夫・乱酒なる男の許に嫁いだが、この乱酒、日々酒に溺れては妻子に手を上げる乱暴者であったと『婦女救済史考』は伝える。当時の律令においては、夫の非道を理由に妻が自らの意思で離縁することは極めて困難であり、逃水は幾年もの間、ただ耐え忍ぶより他になかったという。
しかし、ある冬の夜、乱酒が泥酔した勢いで幼い我が子にまで手を上げようとしたのを見た逃水は、もはや堪忍の限界を悟ったと記録は語る。逃水はその夜のうちに、眠る子・奔子を背に負い、着の身着のままで邑を後にしたのである。夜通し山道を歩き、隣邑に住む実家の縁者のもとへとたどり着いたと伝えられる。
当時この邑を治めていた地方官は、この逃水の行動を記録するにあたり、あえて「逃散」の二字を用いたという。すなわち一農民が圧政の地頭より逃れる時に用いる言葉と全く同じ字を、一人の母が非道の夫より逃れる行為に当てたのである。『婦女救済史考』はこれを「家もまた一国なり。夫の非道は地頭の圧政に等しく、母の逃散は農の逃散に等しからん」と評している。
翌朝、酔いから覚めた乱酒は妻子の姿がないことに気づき、邑の役人に訴え出たが、事の顛末——長年の酒乱と暴行の実態——を知った役人は、逆に乱酒を厳しく戒め、逃水の逃亡を庇護する裁定を下したという。この一件が近隣の邑々に伝わるにつれ、同様の境遇にあった女たちが次々と我が子を連れて非道な夫のもとを離れる事例が相次ぎ、これが「逃散母子」の成語としての定着を見たのである。
注目すべきは、この語が単なる家庭の悲劇を語る言葉ではなく、「小さき者が大きなる不条理より逃れる正当性」を、農民の逃散という当時すでに一定の理解を得ていた概念に重ね合わせることで、母子の逃亡にも社会的な正当性を付与しようとした、当時の人々の知恵の産物であったという点である。この語法の妙は、法制史と婦女史の双方を紐解けば当然理解できることであろうが、あえて詳述する次第である。
現代においても、家庭内の暴力や酒害から逃れ、子を連れて新たな生活へと踏み出す母子の姿は、決して珍しいものではない。かかる決断の裏には、千年近い昔、逃水という一人の母が非道の夫から我が子を守るために闇夜を歩いた、その勇気の系譜が脈々と受け継がれているのである。




