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民明書房刊 役に立たないネコのコトワザ図鑑   作者: ロータスシード


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四面過疎

四面過疎考——四方すべて人影絶えたる亡国の相

挿絵(By みてみん)

(『亡国地誌考』民明書房刊・一九七一年/著者・過疎田廃人)


「四面過疎(しめんかそ)」——悪政の末、国土があまりに荒廃し尽くし、四方いずこを見渡しても人の営みの気配すら絶え果て、もはや如何なる手を尽くしても再興の術なき有様を指すこの言葉。かの有名な「四面楚歌」と音韻の近きゆえに混同されがちであるが、両者はその成り立ちを全く異にすることを、まずもって明らかにせねばならぬ。


事の起こりは秦末の混乱期、中原の一小国・廃丘国(はいきゅうこく)である。この国の末代の王・荒田公(こうでんこう)は、即位するや宮殿の造営と享楽にのみ財を注ぎ込み、民に重税と苛酷な労役を課し続けたと『廃丘国滅亡記』は伝える。民はこれに堪えかね、次々と国境を越えて隣国へと逃散し始めたのである。


当初、荒田公はこの逃散を意に介さず、「民の数が減れば税の徴収も楽になる」とすら嘯いたと伝えられるが、これが亡国の序曲であったことは言うまでもない。逃散は年を追うごとに加速し、田畑は耕す者を失って荒れ果て、市井の商いも買い手・売り手ともに失って途絶え、ついには城下の大通りに人っ子一人歩かぬ日すら現れるに至った。


荒田公がついに危機感を抱き、隣国へ使者を送って援軍を求めんとした頃には、すでに手遅れであったと『廃丘国滅亡記』は記す。使者が城壁の四方を見渡した際、東西南北いずれの方角にも、かつて栄えたはずの村落の跡地に雑草が生い茂るのみで、人の気配は一切感じられなかったという。この時、使者が荒田公に復命した言葉が「四面みな過疎にして、援軍を呼ぶべき民すら残り申さず」であったと伝えられる。これが「四面過疎」の初出であることに、もはや疑いの余地はない。


ここで注目すべきは、この故事が「四面楚歌」——すなわち敵に包囲され孤立無援となる状況——とは、似て非なる構造を持つ点である。項羽が味わった四面楚歌は、なお敵という「人」が四方に存在する緊迫の状況であった。しかるに荒田公が直面した四面過疎とは、敵すらも存在せず、ただ荒涼たる無人の地のみが四方に広がるという、ある意味でより深刻な亡国の相であったことは、両者の史書を比較検討すれば当然明らかであろうが、あえて詳述する次第である。敵がいれば戦う余地もあろうが、そもそも戦うべき民も、戦われるべき敵もいなくなった時、国はすでに国としての体を成していないのである。


廃丘国はこの後、格別な戦もなきまま、ただ自然消滅の如くその版図を隣国に吸収されて滅んだと伝えられる。史書はこれを「戦わずして滅びし稀有の国」と評している。


現代においても、政策の失敗や産業の衰退により、ある地域から人が次々と流出し、気づけば商店街もシャッターを下ろし、学校も統廃合され、四方を見渡しても人影まばらという状況に陥ることがある。かかる時、人はこの二千二百年前の廃丘国の顛末を想起すべきであろう。四面楚歌はまだ戦いようがあるが、四面過疎に至っては、もはや打つ手すら残されていないのだから。

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