五箇の阿呆にあらず
五箇の阿呆にあらず考——雌伏の裡に大成を為す者
(『飛騨越中人物列伝』民明書房刊・一九六六年/著者・硝石堂鈍夫)
「五箇の阿呆にあらず(ごかのあほうにあらず)」——長きにわたり愚鈍・無為の烙印を押されし者が、ある日を境に大功を成し、汚名を雪ぐことを指すこの言葉。単なる郷土の俗諺と侮る者は多いが、この一句が越中五箇山にて実在した一人物の生涯に由来することを知る者は、今日ほとんど残っていないのである。
事の起こりは室町末期、越中五箇山の一寒村である。この村に、名を鈍太と呼ばれる男が住んでいた。鈍太は幼少の頃より寡黙にして動作緩慢、田畑の仕事も人並みに捗らず、村人からは「五箇の阿呆」との蔑称を長年にわたり浴びせられていたと『飛騨越中人物列伝』は記す。婚姻の話も一切なく、四十を過ぎてなお独り小屋に籠り、日がな一日囲炉裏の灰をかき混ぜては何事か思案する姿のみが目撃されていたという。
しかしこの「阿呆」との評は、鈍太の内実を何一つ映してはいなかった。鈍太は実のところ、囲炉裏の灰と床下の土に生じる白き結晶——後に硝石と呼ばれるに至るこの物質——の生成過程を、独力にて何十年にもわたり観察し続けていたのである。当時、硝石は火薬の原料として黄金にも匹敵する高値で取引されていたが、その製法は諸国いずれも秘中の秘とされ、五箇山近隣の村々もこれを産することができずにいた。
ある年の冬、鈍太はついに蚕の糞と山野草、そして床下の土を特定の配合と年月にて発酵させる「培養法」を完成させたと伝えられる。鈍太がこの製法を村の長に披露し、実際に硝石の結晶を大量に取り出して見せた時、居合わせた村人一同は言葉を失ったという。長年「阿呆」と呼び蔑んできた男が、村の困窮を一挙に救う秘法を、誰にも知られぬまま独りで完成させていたのである。
この硝石製法は瞬く間に五箇山一帯に広まり、加賀藩に献上されるに至って莫大な富を村にもたらしたと『越中鉱産録』は伝える。この時、村の長老が鈍太の手を取り、涙ながらにこう述べたという。「我らは汝を阿呆と呼びて久しかりしが、今日をもって五箇の阿呆にあらず」と。
この一言が村中に広まり、以後「五箇の阿呆にあらず」は、長らく無為・無能の烙印を押されてきた者が、雌伏の末に大功を成し、かつての汚名を一挙に雪ぐことを指す成語として定着したのである。注目すべきは、鈍太が「阿呆」と蔑まれた歳月そのものが、実は硝石研究に没頭するための沈黙であったという点である。愚鈍と見えたその実態は、他人に理解されざる深慮であったことは、大成を為す者の生涯を紐解けば当然知っているであろうが、あえて詳述する次第である。
現代においても、周囲から無能・無為と評される者の内に、いかなる思案が潜んでいるかは、当人以外知る由もない。ある日突然の大功をもって、長き雌伏の時が一夜にして評価される時——人はこの五箇山の鈍太の故事を思い起こすべきであろう。




