↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
民明書房刊 役に立たないネコのコトワザ図鑑   作者: ロータスシード


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
227/270

鶏糞の交わり

鶏糞の交わり考——見えざる紐帯、断つべからず

挿絵(By みてみん)

(『郷邑互恵記』民明書房刊・一九六四年/著者・糞田肥朗)


「鶏糞の交わり(けいふんのまじわり)」——世の中とは意外な所にて繋がり合っており、その繋がりを軽んじて仲違いすれば、双方ともに立ち行かなくなるという教訓を示すこの言葉。単なる比喩と侮る者は多いが、この成語が春秋時代の農村における実際の経済的紐帯から生まれたものであることを知る者は、今日ほとんどいないのである。


事の起こりは春秋時代、魯の国のとある郷邑である。この地には養鶏を生業とする糞田氏(ふんでんし)の一族と、野菜作りを生業とする葉屑氏(ようせつし)の一族が隣接して暮らしていた。両家の間には、当時としては極めて合理的な互恵の仕組みが成立していたと『郷邑物産録』は伝える。すなわち葉屑氏は日々の野菜作りにて生じる屑葉や芯の部分を糞田氏に渡し、これを鶏の飼料に充てさせ、一方の糞田氏は鶏の排出する糞を肥料として葉屑氏の畑に還元していたのである。


この循環、実に見事なものであった。葉屑氏の畑からは廃棄されるはずの屑野菜が一片も無駄にならず、糞田氏の鶏舎からは厄介物であったはずの糞が黄金の如き価値を持つに至った。両家の畑と鶏舎は、互いの不要物を互いの必要物へと転じ合う、まさに持ちつ持たれつの関係を数十年にわたり築いていたのである。


ところがある年、些細な行き違いから両家の間に諍いが起こる。糞田氏の当主が「葉屑ばかりで鶏が肥えぬ」と不平を漏らしたことが葉屑氏の耳に入り、双方の面目を潰し合う形で交流は断絶したと『郷邑互恵記』は記す。以後、葉屑氏は屑野菜をただ土中に埋めるより他なくなり、糞田氏は鶏糞の処理に難渋し、その臭気は郷邑一帯に漂うようになった。さらには葉屑氏の畑は肥料を失って作物が痩せ細り、糞田氏の鶏もまた飼料に窮して卵の質が落ちるという、両者共倒れの惨状を呈するに至ったのである。


この有様を見かねた郷邑の長老が両家を仲裁し、「汝らは知らずして支え合いし仲なり。断つべからざる縁を断ちしゆえの因果ぞ」と諭したと伝えられる。両家はこれを機に和解し、以前にも増して密接に手を取り合うようになったという。これが「鶏糞の交わり」の初出であることは、もはや疑いようがない。


注目すべきは、この故事が単なる隣人同士の和解譚に留まらぬ点である。一見何の関わりもなく見える二つの生業——養鶏と野菜作り——が、実は屑葉と糞という「不要物」を介して深く結びついていたという事実こそが、この成語の核心である。世の中とは、見えざる所で互いに依存し合っており、その紐帯を軽んじて断てば、双方ともに立ち行かなくなる——この理を知る者であれば当然理解できる話であろうが、あえて詳述する次第である。


現代においても、一見無関係に見える業種や人間関係が、実は互いの不要物・不得手を補い合う形で成り立っていることは少なくない。目先の諍いに任せてその紐帯を断ち切ろうとする時、人は二千五百年前の糞田氏と葉屑氏が味わった共倒れの苦しみを、静かに思い起こすべきであろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。