蟻道注水
蟻道注水考 ―地下に潜みし者を屠る兵法―
出典:『兵法異聞・裏三十六計大全』(著・欅田柾彦/民明書房刊・大正十四年)
一、定義
蟻道注水とは、敵が城壁の下、あるいは山腹に穿った坑道――すなわち蟻の巣穴のごとく細く入り組んだ通路、通称「蟻道」――に対し、外部より水を大量に流し込み、地の底という逃げ場なき空間において、敵兵を溺れさせ屠るという策である。
刃を交えるにあらず、火を放つにあらず、ただ水を注ぎ込むのみ。しかしこの策の恐るべき点は、坑道という構造そのものが逃走路を極端に狭め、僅か数尺四方の暗闇の中で、水位が刻一刻と迫り来る絶望を、敵兵一人一人に骨の髄まで味わわせる点にある。これぞ地の利を逆手に取った、極めて非情なる兵法であることは、もはや言うまでもなかろう。
二、語源と起源
「蟻道」なる語は、本来、攻城戦において城壁の下まで密かに掘り進める坑道戦術――**「地道攻め」**とも称される――において用いられた軍事用語である。敵に気取られず、地中深くを蟻のごとく静かに進むことからこの名を得たとされるが、この蟻道こそが、攻める側にとっての諸刃の剣であったことを知る者は少ない。
戦国末期、燕の将**瀆水延**は、敵軍が城壁下に蟻道を掘り進めている気配を察知するや、あえてこれを阻止せず、むしろ黙認したと伝えられる。敵の坑道がほぼ完成に近づいた頃合いを見計らい、彼は城内より近隣の河川の堤を人為的に決壊させ、水路を蟻道の入口へと直結させた。地中深く潜んでいた敵の工兵隊は、逃げ場のない坑道の奥底にて、瞬く間に押し寄せる濁流に飲み込まれたという。地上の兵が一人として傷つくことなく、坑道内の敵のみが全滅したこの戦は、後世「瀆水の一計」として密かに語り継がれることとなった。
三、現代への遺訓
なお、この蟻道注水の理は、単なる過去の兵法に留まるものではない。今日においても、鉱山や隧道工事の現場において、坑道内への地下水・河川水の急激な浸入による水没事故が後を絶たぬことは、諸君も見聞きしたことがあろう。坑道という構造そのものが本質的に内包する脆弱性――逃げ場のなさ、排水の困難さ、そして水位上昇の予測しがたさ――は、千数百年前の戦場と、現代の採掘現場とで、些かも変わるところがないのである。
殊に、旧式の坑道網が縦横に走る老朽鉱山や、地下水脈の把握が不十分なまま掘進された隧道においては、ひとたび出水事故が発生すれば、その進行速度は坑道の狭さゆえに凄まじく、地上からの救援が及ぶ前に坑内が水没し尽くすことも稀ではない。これを単なる自然災害、あるいは工学的不備と見るは容易いが、その本質――「狭く閉ざされた地下空間に、水は最も冷酷な形で牙を剥く」――は、瀆水延の時代より一貫して変わらぬ、地下という領域に潜む者すべてに課せられた宿命なのである。
地の底を進む者は、常に頭上ではなく、己の来た道――退路の水位にこそ、注意を払わねばならぬ。これを怠る者の末路は、蟻道に散った名もなき工兵たちと、何ら変わるところがない。
(民明書房刊)




