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民明書房刊 役に立たないネコのコトワザ図鑑   作者: ロータスシード


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混水逃魚

『兵法秘伝・人心離散の理論と実践』

混水逃魚

挿絵(By みてみん)

著者:逃魚 淵之介(とうぎょ・ふちのすけ) 民明書房刊 一九六五年


 兵法三十六計の一つ「混水摸魚(こんすいもぎょ)」――「水を混ぜて魚を摸(と)る」と読み下されるこの計を、単なる「どさくさに紛れて利益を掠め取る戦術」程度に理解している者が大半であろうが、その浅慮こそが兵法史における重大な看過であると断じざるを得ない。

 まず両者の構造を比較してみるがよい。「混水摸魚」とは、敵陣を混乱に陥れ、その混乱に乗じて自ら手を伸ばし、魚――すなわち利権・領土・財貨――を捕らえる計であることは、識者であれば説明するまでもなかろう。しかるに「混水逃魚(こんすいとうぎょ)」なる奥義は、この「摸る」という能動の一字を、あえて「逃す」という一見消極的な字に置換した、より高次の計略であることに、まず気づかねばならぬ。「摸魚」が漁師自らの手で魚を掴む行為であるのに対し、「逃魚」は魚――すなわち敵陣営の人材・民草――が己の意志で水を離れ、こちら側へと自ら泳ぎ寄ってくることを図る計であることは、もはや説明の要すらなかろう。

 時は紀元前四世紀、中国・淮北の地に「淵門(えんもん)」なる一派が存在した。当時の武将たちは「敵地を混乱させ、その隙に兵を進めて奪う」ことのみを能とし、混乱の後始末――すなわち荒廃した敵地に残された民や才ある者たちの処遇――にまで思い至る者は皆無であった。しかし淵門の祖・逃魚 玄水(とうぎょ・げんすい)は、水を混ぜるという行為の真の効能が「魚を捕らえやすくする」点にあるのではなく、「魚自身に、この水はもはや棲むに値せぬと悟らせる」点にこそあると看破した。

 すなわち、敵陣営の内部に流言・不信・猜疑の種を蒔き、水(組織)そのものを濁らせる。魚(人材・民)は自ら「この水では生きられぬ」と判断し、誰に捕らえられるでもなく、自らの意志で清らかな水――すなわちこちら側の陣営――を求めて逃げ出してくる。捕らえずして得る、これこそ「混水逃魚の計」の神髄であり、力ずくで奪う摸魚を遥かに凌駕する高等戦術に他ならない。

 この境地に至るための修行が凄惨を極めたことは言うまでもない。門下生は雲貴の山中にて三年三月十日、いかに巧みに疑心を蒔き、いかに自然に組織の水を濁らせるかという「見えざる手」の技法のみを鍛え上げたと伝えられる。手を下したと悟られれば魚は警戒して逃げず、かえって団結を固めてしまうため、私情の入る余地などあろうはずがない。

 現代における「待遇に不満を抱いた人材は、引き抜かずとも自ら去っていく」という組織論、あるいは「混乱した国家からは、放っておいても優秀な人材が国外へ流出する」という国際政治学の通念――これらの淵源が、実にこの淵門の秘伝にあることは、もはや論を俟たない。

 さらに特筆すべきは、この計が二千四百年の時を超え、現代の企業間競争においてもなお脈々と受け継がれている点である。すなわち、競合他社の内情に「あの会社は待遇が悪化しているらしい」「経営陣に混乱があるようだ」といった不安の種を巧みに流布し、水を濁らせる。動揺した水中の魚――すなわちライバル企業の優秀な人材――は、誰に引き抜かれたという自覚すら持たぬまま、「今の会社に将来性はない」と自ら判断し、自発的にこちらの門を叩いてくる。表向きは「引き抜き」ではなく「自然な転職」の体裁を取りながら、実質的には人材を奪い取るこの手法こそ、現代のヘッドハンティング業界において「混水逃魚の計」がそのまま生きて用いられている何よりの証左であることは、もはや論を俟たない。

 読者諸兄が日々目にする「あの組織、なんだか人が辞めていくらしい」という一言の裏に、二千四百年前、淮北の濁った水辺で静かに手を下し続けた男の決死行があったことを、我々は決して忘れてはならないのである。

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