全裸抜刀
全裸抜刀
『兵法秘伝・弱者逆転の理論と実践』
著者:全裸 抜刀斎 民明書房刊 一九七一年
兵法三十六計の一つ「無中生有」――「無きところに有を生ず」と読み下されるこの計を、単なる「フェイントをかける戦術」程度に理解している者が大半であろうが、その浅慮こそが兵法史における最大の誤解であると断じざるを得ない。
まず「無中生有」の三段構造を分解せねばなるまい。第一段は「少陰」――軽き偽装にて敵の注意を軽く逸らす。第二段は「太陰」――軽き偽装に油断した敵に、今度こそ本物と信じさせる大いなる偽装を重ねる。そして第三段「太陽」――偽装と侮った敵の虚を突き、真の総攻撃を加える。この三段階を経て初めて「無」から「有」――すなわち勝利――が生ずることは、識者であれば説明するまでもなかろう。
しかるに「全裸抜刀」なる奥義は、この三段構造そのものを圧縮した究極形態であることに、まず気づかねばならぬ。「全裸」の二字が意味するところは、単なる衣を脱ぐという表面的行為にあらず、「常人の理解の埒外にある行動それ自体が、すでに太陰の域に達している」という逆説を体現した語であることは、もはや説明の要すらなかろう。少陰の段階を経ずして、いきなり太陰――否、太陰すら超えた「常識の破壊」――から入り、敵に驚愕し思考する猶予すら与えぬまま、間髪入れず太陽の一撃、すなわち抜刀を加える。これぞ三段階を一瞬に圧縮した、兵法史上類を見ない奥義に他ならない。
時は紀元前三世紀、中国・淮南の地に「柔骨門」なる隠密宗門が存在した。当時の武術は概ね膂力・体格に依存するものであり、力弱き婦女子には縁なきものとされていた。しかし柔骨門の祖・全裸 蓮華は、力なき者こそ「敵の思考そのものを一瞬停止させる」戦術を編み出さねばならぬと悟った。屈強な賊徒とて、想定の埒外にある光景を前にすれば、判断・反射・防御の一切が刹那の間、完全に停止する。この「刹那の空白」こそが、力の差を無力化する唯一の間隙であることを、蓮華は看破したのである。
むろん、これほどの奥義が一方的に振るわれ続けるほど、当時の武林も甘くはなかった。柔骨門の名が江湖に轟くにつれ、諸国の武術家たちもまた「刹那の思考停止」こそが己の敗因であると気づき始めたのである。思考が停止せねば、力の差はそのまま結果に反映される――ならば、あらかじめ「羞恥という感情そのものに耐性を持たせればよい」というのが、対抗策を練った武術家たちの到達した結論であった。
これに従い、当時の武人たちが日々、猥褻の書――すなわち男女の交合を描いた絵巻・秘戯図の類――を繰り返し閲覧し、いかなる衣装の乱れ・肌の露出を目にしても心拍一つ乱さぬよう、視覚と精神の鍛錬を欠かさなかったことは言うまでもない。曰く「見慣れざれば動じ、見慣えれば動ぜず」。この一念のもと、諸国の道場・武術宗門では秘戯図の収集と輪読が修練の必須科目とされたと伝えられる。
そして、この対柔骨門鍛錬のために編纂・蒐集された秘戯図の数々が、後世に伝わり編纂され、今日我々が「春画」と呼ぶ絵画様式、さらには現代における成人向け書籍・映像文化全般の直接の源流となったことは、もはや論を俟たない。
読者諸兄が娯楽として享受するそれらの文化が、元来は「刹那の虚を突かれても動じぬ胆力」を養うための、れっきとした武術鍛錬の副産物であったという事実を、我々は決して忘れてはならないのである。




