8. 悲しい終わりの先に
「生涯独身宣言なんてした変わり者令嬢が、シュナイゼル公爵さまの婚約者だなんて、許せませんわ!」
貴族社会の醜聞は、広まるのは早いが、落ち着くまでは酷く時間がかかる。意図した言葉とは違っても、身勝手な噂は独り歩きするものだ。
――悪意に満ちた言葉には、慣れることはできないし、慣れたくもないわね。
お茶会の度に聞かされる心無い言葉に、聞こえないふりをするのも限界を感じていた。
「無神経な噂好きなご婦人方にも腹立たしい思いでいっぱいですが、嫉妬に狂ったご令嬢なんて、目も当てられませんわ。」
少し興奮した様子で、ローラがまくしたてる。疲れた様子のわたしを見かねて、母が気心の知れた友人たちだけでお茶会を開いてくれた。
――ランドルフ侯爵家のスコットさまとの婚約で悩んでいたローラに、余計な口出しをして言い争いになったというのに、あのアドバイスに助けられたって、お手紙をくださったのよね。
「スコットさまも、とても不快に思っていらっしゃるのよ。」
一人で興奮していたことが、急に恥ずかしくなったのか、ローラが顔を赤らめてうつむいた。
「お二人の仲がよさそうで、わたしはそれが嬉しいですわ。」
実のところ、それが本音だった。たとえ価値観が違ってぶつかることがあったとしても、お互いに歩み寄ろうとする心さえあれば、いくらでも関係は変えていける。
「ローラが証明してくれているわ。」
「どういうこと?」
「人は変われるの。きっと、わかってもらえる日が来る。」
微笑んでみせるが、力ない。
――家族も友人も、タニアでさえも、わたしが悪評に晒されて落ち込んでいると思ってる。
でも違うのよ……
夜会で浴びせられた好奇の視線に、身体が震えたのは本当だ。聞くに堪えない言葉を、わざと聞こえるようにつぶやかれることも多かった。次第に夜会へ参加することが怖くなり、人に会うのが怖くなってしまった。
――落ち込んでいるわけじゃない……わたしは「人が怖い」
一度蘇った恐怖は、簡単に消えてはくれないらしい。
――マティアスさまに前世のお話をしなくては……そう思っても勇気が出せないでいる。
日ごとに外へ出ることも人に会うことも叶わなくなり、お茶会をひらいて友人に会うことすらできなくなっていた。
「お嬢さま……」
タニアが髪を結い上げながら目を伏せる。
「そんな顔しないで。少し時間が必要なの。」
「本当ですか?」
「マティアスさまにお会いしなくてはと思いながら、どうしていいかわからないでいるのよ。」
何か言い訳が欲しくて、困ったように思いついたことを口にした。
「それならば、お茶へお誘いしましょう。」
タニアが目を輝かせて提案する。
「お嬢さまのお作りになるお菓子は、とてもおいしゅうございます。ぜひ、マティアスさまにも食べていただきませんか?」
「そうね。厨房での作業は制限されてしまったけれど、大丈夫かしら。」
「心配ならば、料理長直々についてもらいましょう。」
少しだけ前向きな言葉が聞けたことに、タニアが安堵したのか嬉しそうに笑った。
料理長の協力を得て、久しぶりにララとして厨房で火を使うことを許された。副料理長は納得いかない様子だったが、そこは力技……と言ったところだろうか。母もマティアスさまをお茶会に招待することに賛成してくれた。
「実は、あなたたちが会っている様子がないから少し心配していたのよ。」
「少し考えたいことがあったの。マティアスさまにお話ししたいと思っていたんだけれど、考えがまとまらなくて……」
「大事なことなのね。」
「はい、とても……」
それが何かを聞かないでいてくれるのが、母の優しさなんだろうと思ったら、涙が出そうになった。
――だからと言って、前世のことなんて話せないんだけどね。
苦笑いがこぼれる。マティアスさまも忙しかったようで、ルードルフさまを説得するのに二日、時間を作るために業務を終えるのに二日かかると知らせてくれた。
「無理をさせてしまわないかしら。」
マティアスさまの不器用な笑みを思い浮かべる。
――彼はきっと大丈夫。変わったりしない。
両腕でぎゅっと自分を抱きしめる。もう顔も思い出せないというのに、冷たい視線と冷ややかな声がやけにリアルに脳裏に浮かぶ。
『お前、うざいよ。』
あの時感じた虚無感と喪失感が足元からじわじわと身体を支配していく。
「だめっ。」
――わたしはもう、西島みつきじゃない!ララベル・ウィンスランよ。
マティアスさまに前世を告げることが怖くないと言えば嘘になる。でも、それ以上に、過去に縛られている自分が、その先に何も見えない未来が、絶対的に怖かった。
穏やかな風が気持ちいい午後。母の自慢のテラスにお茶会の準備を整えて、マティアスさまを待っていた。大きなカトレアの花束を抱えて、マティアスさまは時間ぴったりに現れた。
「手紙、ありがとう。時間を作れなくてごめん。」
婚約からずっと、二人で会う時間が作れなかったのは事実だ。夜会の出席も、地方へ視察に行っている時が重なって、兄にエスコートしてもらった。そのせいで、余計に好き勝手なことを言われてしまったこともあり、それ以降は出かけることさえなくなった。
「一部の貴族たちはわたしたちが婚約を解消するのではないかって、その知らせを待っているんですって。」
「何だって!」
「ミルズ伯爵家のローラさまが教えてくださったのよ。」
「ランドルフ侯爵家のスコット殿の婚約者か?」
「はい。仲良くさせていただいていますの。」
「君が友人と過ごせていると聞いて少しホッとしたよ。」
「そんなに悪い噂が?」
「そうじゃない……いや、そうなのか……」
マティアスさまが俯いてしまったところを見ると、いい噂は聞かなかったようだ。
「外出できなくなったのは本当です。」
「大丈夫なのか?」
「ええ。今日はどうしてもお話したいことがあったので、お顔が見られてとても嬉しいです。」
「わたしもだ。」
さり気なく手を重ねてくれる。
「わたしも、君に話したいことがあるんだ。でも、まずは君の話を聞こう。」
ゆっくりと息を吐き、わたしは前世で経験したトラウマをマティアスさまに話し始めた。
「……」
「驚かれましたよね。信じられないと思います。」
「そんなことはないっ!」
抑えた感情がそのまま声になったような、つらそうな響きだった。
「近くに行っても?」
こくりと頷くと、彼が手を取り、片膝をついてわたしを見上げた。
「つらいことを話してくれてありがとう。君の勇気と強さに感謝する。」
不器用な手がこわごわと頬を撫でて、涙があふれていることに気づいた。
「わたしは君に救われた。君はわたしにとって特別な存在だと、そう思っていた。」
「違いましたか?」
「いや、特別だ。でも、それだけじゃない。」
「……?」
彼が視線を逸らして、なんだか言いよどんでいる。
「嫉妬した。」
「えっ?」
「嫉妬したんだ。」
想像すらしていなかった言葉に、驚いて目を見開く。
「君をそこまで傷つけた男に腹を立て、君がそれほど愛していたのかと思うと……」
「そんな……」
「これが、嫉妬なんだと思う。」
「でも、ララベルとしてお慕いしているのはマティアスさまだけです。」
「わかっている。わかっているんだが……」
いつもの冷静さはどこかへ行ってしまったのか、彼が低く唸り声をあげている。
「過去は変えられない。」
強い眼差しで、彼が真っすぐと見つめる。
「でも、未来ならいくらでも作っていける。」
そう言うと、大きく頷いた。
「ララベル、わたしがあなたの憂いをすべて晴らそう。」
マティアスさまが笑った。
――陽だまりのような笑顔ってこういうことを言うんだ。
べた過ぎて笑ってしまいそうだけれど、素直にそんなことを思った。
「それができたと思ったら結婚しよう。」
彼は照れくさそうに、笑って続けた。
「本当は、婚約の印にこれを渡そうと思っていたんだ。」
「マティアスさまのお話って」
「あぁ、このことだよ。」
開けられた箱には、彼とわたしの瞳の色が美しいネックレスと、彼の瞳と同じ色の宝石をあしらった指輪が入っていた。
「受け取ってくれるかい?」
「嬉しい……」
「婚約の証だ。」
指輪を取り出すと、ゆっくりと薬指にはめてくれる。
「君がまた笑える日が来たら、これに対となる指輪を贈るよ。」
「対の?」
「結婚式の日になればわかるさ。楽しみにしていて。」
彼が悪戯っぽく笑った。
「ゆっくり歩いて行こう。わたしはどうやら、まだまだ学ばなければならないようだからね。気づいたら、君に追い越されていそうだ。」
そう言って笑う彼の笑顔は信じられる。
素直にそう思った。




