7. 青天の霹靂
「何をしているんですかっ!」
昼下がりの執務室に、ルードルフの大きな声が響く。
「いや……自分でもよくわからないんだ。でも、気づいたらララベルが腕の中にいた。」
「よくわからないとか、何言ってるんですか。無意識だろうと意図的だろうと、女性が腕の中にいたのなら、あなたが抱き寄せたんじゃないですか。」
「そう、そうなんだが。すぐに手放したぞ?」
「問題はそこではありません。」
――ルードルフがこれほど取り乱すなんてことが、あったろうか。
誰かが冷静さを失うと、不思議と自分は冷静になれるものだと、変な悟りがひらけてしまった。
「そう、怒るな。」
「これが怒らないでいられますか!」
「すっ、すまない。」
「で、どうされるのですか?」
耳を垂れた大型犬のようにしゅんとされては、ルードルフもこれ以上責める気にはなれない。
「婚約願をご両親あてに送ろうと思う。」
「はぁ?」
盛大なため息が執務室に納まりきらない勢いであふれる。
ルードルフが、大袈裟に息をつきマティアスを睨む。
「本当に、そうされるおつもりで?」
「ララベルはわたしにとって特別なんだ。」
「で?」
「でって、それならば婚姻を結んでもいいと」
「どうしてそうなるんですか???」
「むしろ、どうしてそうなってはいけないんだ?」
どうやら、マティアスは本気でこの結論が正しいことだと信じているようだ。
「仕方ありませんね。一つずつ順を追っていきましょう。」
「……」
「まずは一つ目、ララベルさまのお気持ちはお聞きになっているんですよね?」
「……聞いてない。」
「ご本人に確認されてないんですね。」
ルードルフの特大のため息が落ちる。
「ご自分のお立場はご存じで?」
「シュナイゼル公爵だ。」
「その公爵家から、伯爵家へ婚姻願が出た場合、どうなるかわかりますか?」
「……断ることは、できないだろうな。」
「それはご存じだったのですね。」
二つ目の特大ため息が落ちる。
「マティアスさま、ここが一番大切なことです。」
「何だ?」
「ララベルさまのお気持ちを確認もせず、断れない婚約願を出す。それが何を意味するかを考えてください。」
「……」
「あなたがしようとしていることは、今まであなたの気持ちを無視して気持ちを押し付けてきた女性たちと何ら変わらないということですよ!」
マティアスの大きな身体がびくりと揺れる。
「そんなつもりは……」
何かを言いかけて、瞳が大きくひらかれる。
「そうか……そうだよな。」
肩を落として、酷く傷ついた顔になる。
「大丈夫です。あなたはまだ、何も行動していない。ちゃんと考えてください。あなた自身の気持ちに向き合うことも、ララベル嬢と話すことも、すべてはそこからです。」
執務室に穏やかな風が流れ込んだ。マティアスは両手をしっかりと握り、何かを考え始めた。
「ララ、おい、ララっ!」
厨房に副料理長の大きな声が響く。
「調理場でぼうっとするな。危ないだろっ!」
「すみません。」
「謝って済む問題じゃねぇ。今日はもう終わりだ。」
「えっ?」
「危なっかしっくって見てられん。タニアはもう呼んだ。今日は休め。」
調理場の入り口に、心配そうなタニアを見つけた。
「ララ、今日は副料理長の言うことを聞いてください。」
「わかりました。」
肩を落として厨房を後にする。
――今日は、コーンスープのお披露目だったのに……
原因はわかっている。朝からふとしたきっかけで、あの夜のことを思い出しているのだ。
部屋へ戻ると、タニアにぎゅっと抱きしめられた。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。心配かけて、ごめんなさい。」
それ以上の言葉が思い浮かばない。勝手なお願いを聞いてもらっているというのに、迷惑をかけてしまった。それだけじゃない、タニアは朝からずっとわたしを心配してくれていたのだ。
「何があったのか、お伺いしてもよろしいですか?」
こくりと頷く。
「あの夜会の夜……公爵さまにマティアスと呼んで欲しいと言われたの。」
「それは、良いことでは?」
「とても嬉しかった。」
「それで?」
「気が付いたら、腕の中にいたの。」
「えっ?」
「マティアスさまに抱きしめられていたんだと思う……」
「お嬢さまの承諾なしに?」
「……自分でもよくわからないの。でも、気づいたらマティアスさまの腕の中にいたの。」
「よくわからないとか、何言ってるんですかっ。お嬢さまがマティアスさまの腕の中にいたのなら、抱き寄せられたということではないですか。」
「嫌じゃなかったのよ。すぐ離れてしまったし……」
頬が熱くなるのを感じて、思わず俯いた。
「むしろ嬉しいと思ったの。公爵さまはわたしをお嫌いでないのだなって……そう思って……」
「お嬢さま。」
タニアの口調が厳しくなる。
「問題はそこではありません。」
「えっ?」
「いいですか、未婚の女性を腕に抱きしめるというのは大変なことなんです。」
「……」
「公爵さまからお気持ちを伺っているのですか?」
「……何も聞いてないわ。」
「そのあと、何かおっしゃっていましたか?」
「……馬車まで無言で歩いたわ。」
タニアが泣きそうな顔になる。
「それはあまりに無責任です。」
「……」
「公爵さまを見損ないました。」
「そんなふうに言わないで。マティアスさまは不器用だけれど、とても優しい方よ。」
「それを証明してくれなければ、タニアは安心できません!」
そんなやり取りをしていると、扉がノックされる。
「お嬢さま、お手紙です。」
手渡された封筒には、見慣れた公爵家の蝋印が施されている。
「マティアスさまからだわ。」
封をあけて手紙を読む。
「……つっ」
マティアスの手紙はとても誠実な内容だった。
――なのに、なぜ……
ララベルの頬に涙が伝う。
――胸が軋むように痛い。
タニアが慌てて抱きしめてくれる。
「どうされました?何か悪い報せでも?」
「違うの。マティアスさまにとって、わたしは特別だって……君の気持ちも同じだと嬉しいって……」
「それならば、なぜ泣いていらっしゃるのですか?」
そう問いかけられて、涙の理由がないことに気づく。
「わからない……わからないわ。」
けれど、涙は一向に止まる様子がない。
「嬉しいとお返事しなければ。わたしはマティアスさまをお慕いしていますって……」
涙を流しながら、そう微笑んだ。
マティアスさまに返事を書いてすぐ、両親がマティアスさまからの婚約願を受け取った。手紙のやり取りが長かったこともあり、両親は随分とやきもきしていたらしい。
いつものように優しい笑みを浮かべた母が嬉しそうに尋ねた。
「おめでとうと伝えていいのかしら?」
「マティアスさまは、とてもお優しい方です。」
今度は父が少し不機嫌につぶやいた。
「生涯独身だと言われていた最後の公爵さまだぞ。」
「とても、不器用な方ですから……」
わたしの言葉に納得がいかなかったのか、今度は厳しい表情で問いかけてきた。
「婚約を受け入れて、いいんだな。」
父が念を押すように見つめる。
「はい、お受けします。」
迷いなく笑ってみせた。
その答えに、母が嬉しそうに微笑み返してくれる。兄も、涙目になっている。
家族に祝福されての婚約……そこに迷いはない……ハズだった。
そして、二人の婚約は瞬く間に社交界に広まり、同時に、最後の独身公爵と名高く、生涯独身だろうと思われていたマティアス・シュナイゼル公爵の婚約は、貴族社会を激震させることとなった。
「わたしが婚約……」
ベランダで夜空を見上げる。ぽつりぽつりと小雨が降り始めた。
「あっ。」
冷たい雨が頬を濡らし、忘れていた痛みを思い出す。
――あの涙……
マティアスの気持ちを知って、なぜ涙があふれたのか。ずっと気になっていた。
――マティアスさまに伝えなくてはいけないのかしら……生涯をかけて愛する人なら……嘘はつきたくない。
ゆっくりと頬を濡らす雨が、土砂降りの痛みを呼び起こした。
向き合うことを避けていた気持ちが、忘れられたと思っていた苦い気持ちを連れてくる。
――彼に話さなきゃ……でも……




