5. トラウマ
『あなたは公爵家の嫡男よ。』
想えば、母の口癖だった。
――その言葉には、後継としての立ち振る舞い、将来への期待、いろんなものが込められていたのだろう。
眠れない夜に、グラスを傾けるのは習慣になっていた。
「いまさら……」
マティアスにとって、公爵家の嫡男という言葉は大きなプレッシャーであり、足かせだった。厳しい教育が課せられた少年期。父の政務を手伝うようになった青年期には、母の希望で数々のお茶会と夜会に参加させられた。
――政務の方が、よっぽど楽しかったな。
思い返せば、お茶会にも夜会にもいい思い出がない。初めて出かけたお茶会はまだ十三歳になったばかりの頃だった。主催者である侯爵夫人と母が席を外すとすぐ、マティアスは令嬢たちに囲まれた。
「みなさん、失礼よ。」
戸惑う自分に助け舟を出してくれたのは、主催者の夫人の娘である侯爵令嬢だった。ご令嬢に失礼があってはならないと、緊張していたこともあって、助けてくれた令嬢には素直に好感をもった。
「まさか、それが企みだったなんて、思いもしなかったんだよな。」
退席をして会場へ戻る道すがら、令嬢たちの楽しそうな声が聞こえてきたことを思い出す。
『ジルさま、マティアスさまのお心を掴めたのではなくて?』
『そうね。困っている状況で助けを出せば、好感が持てると教えてくださったお母さまに感謝だわ。』
『マティアスさまとご縁がいただければ、将来は公爵夫人ですわね。』
『あなたの協力は、忘れないわ。でも、マティアスさまと呼ぶのは、これからはわたくしだけよ。』
勝ち誇ったように笑う顔と、自慢げな声が忘れられない。
――嫌な思い出だ。
「女性の親切とは……簡単に信じたわたしが愚かだったということだ。」
カラン、とグラスの中で氷が音を立てた。
『最低限なんて、ご謙遜です。誘ってくださり、ありがとうございます。』
――彼女のあの笑顔も、嘘なんだろうか。
おもむろに手の中のグラスを回す。氷の冷たさが変に心地いい。
『あなたなら、公爵家に相応しい婚姻を選ぶと信じていますよ。』
――相応しいという言葉は便利だな。
シュナイゼル公爵家は歴史も古い。王家とのつながりも強く、何代か前には王族から降嫁した王女が公爵夫人であった。
「王位継承権がある……地位を得たい女性と、王家とのつながりが欲しい彼女たちの生家……彼らにはさぞ魅力的だろうな。そして、そういう家と繋がることが公爵家を盤石とする……そう信じられている。それも問題なんだろうな。」
初めての茶会での経験から数回を経て、すぐに茶会への参加は控えるようになった。父から多くの政務を継ぐようにし、昼間は積極的に実務経験を積むようにしたからだ。
――母は渋ったが、最終的には、公爵家の後継者としては必要だと判断したようだったな。
記憶にある限り、両親は不仲ではなかったと思う。それでも、どこか他人行儀で仲睦まじいとは思えなかった。
「最大の理由は、夜会と家での二人の様子が全く違ったからな。」
ひとり言にもため息が混じる。
ララベルの震える指先を思い出した。
――怖がらせてしまったのだろうか。
「喜ぶかと思えば、戸惑って。戸惑うかと思えば、喜ぶ……つくづく想定外だ。」
ダンスに誘えば笑うと思った。近づいて踊り、無愛想に言葉を返せば戸惑うだろう。そう考えていたのだ。
「彼女の反応は、真逆だったな。」
ダンスに夢中になって笑っている顔を思い出す。
「本当に、楽しそうだった。」
――嘘であってほしくない……わたしは、そう思っているのか?
自問自答したことに苦笑いする。
生涯独身宣言をしたという令嬢に興味を持った。政略結婚が当たり前の貴族社会で、男の自分でも憚られる「独身」という言葉を、堂々と口にしたという。
「もっと気の強い女性なのかと思っていたが……」
思ったよりも華奢で、想像よりも繊細な印象を持った。
「わたしが知る、どの女性とも違った。」
マティアスには女性問題が常について回った。公爵家嫡男として政務をこなしていた時も、夜会での令嬢たちのアプローチはかなりのものだったが、早くに爵位を譲り受けたことで、その地位はさらに女性たちの注目を集めた。
『妻にと言い寄られることには、辟易されているのでしょ?』
公爵になったことで、アプローチをかけてくるのが令嬢だけではなくなった。夜会に出かけると、夫人たちにも「一夜の楽しみ」に誘われるようになったのだ。
「妻にならないのだから、そんな言い分ばかりだったな。わたしが喜ぶとでも思っていたんだろう。」
未婚の令嬢は妻の座を、既婚のご夫人たちはステータスを、どちらも「公爵」が目的であり、それ以外に何も見えてないようだった。
――女など、地位しか見ていない。愛など……求める者などいなかった。
夜会で、ララベルを面白おかしく揶揄る男たちの大半が、「生涯独身宣言」ばかりを繰り返していたが、ふと耳にした、彼女の発言そのものに、マティアスは強く興味をひかれた。
『わたしは、生涯を捧げたいと思えるたった一人の男性を探しているのです。』
――彼女の独身宣言の根底には、強い信念がある……そう感じたんだ。
領地の評判も上々、使用人たちからの信頼も厚いと聞いた。
「ルードルフには、どうして調べるのか?と怪訝な顔をされたな。」
――人のために生きる献身的な姿、見返りを求めない謙虚さ、身分関係なく人を大切にする……彼女の行動は、わたしが知るどの女性とも違う。
「会ってみたいと思った。」
――会って、もう少し話してみたいと思った。
「気づけばダンスに誘っていたんだよな……ガラにもない。」
自分の不可解な行動に、少しだけ理由が見えた気がした。
――自分の知る女性たちとは違っていてほしい……わたしは、そう思っているのか?
窓から夜風が吹き抜けた。風に揺れたわけでもないだろうに、グラスの中の氷がカランと音を立てる。
ゆっくりと口をつけて、ブランデーの芳醇な香りを楽しむ。
――『人となりを知りたいと思うなら、その人との交流を大切にすればいい。』だったか
ランドルフ侯爵令息が婚約者と歩み寄るきっかけになった言葉だとエヴァンス公爵夫人が教えてくれた。
「彼女を知りたいと思うなら、交流を始めなければならないということか。」
果たして自分にその覚悟があるのだろうか。グラスを飲み干して、苦い顔をする。
その手段が思い当たらないまま、夜がゆっくりと更けていった。




