2. 新生活、伯爵令嬢ララベル
「お母さま、ありがとうございました。もう大丈夫です。」
ララベルとして生きる。
涙が枯れるころには、自然と笑えるようになっていた。
「ゆっくり休んでいいのよ。」
「はい。でも、わたしにできることから始めようと思います。いいですか?」
泣いていても何も変わらないのだ。
何も思い出せそうにないし、前世に未練もない。
――あったところで、どうにかなるものでもなさそうだもの。
「すこし記憶が曖昧で不安です。淑女教育は学び直すことになってしまうかもしれません。」
思っていたより不安げな顔をしていたのだろうか、母が優しく微笑んだ。
「馬車との接触で、大きなけがをせずに済んだことは奇跡だと、お医者さまもおっしゃっていたわ。何も心配しなくていいのよ。また、フェルモンド夫人に来ていただきましょうね。」
「ありがとうございます。」
――事故にあったのね。
目覚めたときの侍女の様子や両親の安堵した表情から、なにかしら大変なことがあったのだろうと推測していたが、接触事故にあっていたのだ。傷一つないのは、医者の言う通り、奇跡だろう。気持ちが落ち着いて、ゆっくりと部屋を見渡す余裕ができた。真っ白なリネンに、優しいクリーム色と若草色で彩られたその場所は、ララベルの人柄をあらわしているのかもしれない。
――伯爵令嬢か……セカンドチャンスだと思って、やれるだけやってみよう。
「お母さま、わたしは大丈夫です。」
そう言葉にしたら、本当に心が前を向いた気がした。
ララベルとして生きる。
――ただ生きるだけじゃないわ。わたしは、幸せになりたい。今度こそ、幸せになる。
窓の外で揺れる木々さえ、そんな自分を応援してくれているように感じた。
「はぁ。」
盛大なため息が出る。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
「ため息だなんて、淑女らしくないわね。ごめんなさい。」
わたし付きの侍女、タニアには心配をかけてばかりだ。
――お嬢さま教育を甘く見過ぎてたわ。
小説の中で読んだ貴族生活は、優美で豪華なものに思えた。
綺麗なドレスに身を包み、おいしい食事と楽しい会話。
――まぁ、ダンスは覚えなきゃいけないから大変だと思っていたけど
「ダンチだったわ。」
「何ですか、それ?」
思わず考えが口に出ていたようだ。想像より段違いの貴族生活のハードさに、心が折れそうになる。
「ねぇ、タニア。今日もいいかしら?」
そんな毎日の、唯一の息抜きになりつつあるあることをタニアに頼む。
「奥さまに叱られます。」
「あら、お母さまには許可をいただきましたわよ。」
「でも、旦那さまは……」
「心配しないで、お父さまもちゃんと頷いてくださったわ。」
あるお願いをしたときの、両親の困惑した顔を思い出す。
「わたしたち使用人と同じように働きたいだなんて……」
「あら、みんなの仕事を知ることは、とても大切なことよ。」
「だからって、お嬢さまがわたしたちと同じ格好をして同じ仕事をするなんて……」
「わたしは、わたしの生活を当たり前だと思いたくないの。」
――貴族令嬢としての優雅な生活は、一週間が限界だったのよね。
「傅かれるだけで、何も知らないのは嫌だわ。」
淑女教育はマナーと一般教養が中心で、自分には何か足りない気がしたのだ。
しいて言えば、学生生活のようなものだったため、実戦が伴わない。
「経験って、知識として知ることより大切なのよ。」
社会人になったばかりの頃の自分を思い出してしまった。
接客もデータ処理もできると思っていたが、全然うまくいかなかった。実生活の中では突発的なことが起こるのが日常だ。だからこそ、経験が必要なのだ。
――相手のことを知るためには、聞くだけでも見るだけでもダメなのよ。できるなら、同じ目線で行動したいわ。
窮屈なレッスン用のドレスから、使用人たちと同じお仕着せに着替える。
「だから、今日もよろしくね。先輩。」
とびっきりの笑顔で笑ってみせる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ララ。」
苦笑いをしながら、タニアが挨拶を返してくれた。
使用人として働くときは、髪型と名前を変えて「ララ」と名乗ることにしている。
わたしが誰だか知られると仕事にならないからと、両親にそう提案した。この奇妙な行動を知っているのは、各担当場所の責任者だけ、つまり家令と侍女長、料理長だけということだ。
「今日は、厨房でお手伝いさせてもらえるのでしたよね。」
今の自分は、新人使用人。最初、タニアはこの言葉遣いに動揺して、受け答えができないほどだった。
――それも、強引に慣れてもらっちゃったのよね。
「料理長がお待ちです。」
一人暮らしの経験もあって、家事一般はそれなりにこなせる。異世界の料理はイマイチだと小説に書いてあったが、それが本当で心底肩を落とした。つまり、使用人として働く目的のひとつは、こうして厨房に入り、自分のために料理がしたかったと言っても過言ではない。
「料理長、新しい使用人がどうして厨房に?」
副料理長が露骨に不快感をあらわにする。
「本日は、こちらでお手伝いするようにと奥さまからご指示をいただきました。」
「うっ。」
――そうなのよね。反発は予想できたから、お母さまからの指示ということにしておいたのよ。
伊達にアラサーしてたわけじゃないの。根回しは大切だもの。
にっこり笑ってみせる。
「奥さまが、ララの作る昼食を所望だ。」
「えっ?作らせるんですか??」
あからさまに驚いている。無理もない。貴族の厨房は、一流レストラン並みに上下関係が厳しい。ぽっと出の新人が、おいそれと料理をしていい場所ではないのだ。
「火は使いません。簡単なサンドイッチとサラダをご用意することになっています。」
「お前は夕食の下ごしらえとデザートを頼む。お嬢さまはお前のデザートがお気に入りだからな。」
最後の一言に、副料理長の方がビクッと反応する。俯いた顔が赤い。
――飴とムチ作戦、成功ね。
副料理長は研究熱心で、希望を伝えるとそれに近いデザートを作ってくれる。昼の準備がなければ、デザートに時間が使えるのだから、それを喜ばないはずはない。心の中で成功した作戦に大きく頷きながら、わたしは厨房を見回した。
「食糧庫はこちらです。」
大きな扉が三つ。右は常温保存の部屋、真ん中は冷蔵室、そして左にチルド室。
――この世界に魔法があったことにも驚いたけれど、まさか冷蔵庫とチルド室があるとは思わなかったのよね。
初めて冷たいデザートを食べたときは、本当に感動した。記憶が曖昧になっていると告げてなければ、両親にも疑われてしまったかもしれない驚きようだった。
「酢と油、あとは塩コショウにマスタード……あとなんだっけ?」
サンドイッチに禁断のソースは必須だ。材料を見繕っている時に、白い物体を発見した。
「料理長、これは?」
「ミルクを発酵させて水を切ったものですね。」
小さなスプーンで味見までさせてくれる。
――他の調理人たちがびっくりしてるから、ダメでしょ。でも、おいしい!
「ギリシャヨーグルト?」
わたしのつぶやきに料理長が怪訝な顔をしているが、まさかヨーグルトを発見できると思わず興奮してしまう。貴族女性にとって体型維持は大事なことだ。禁断のソースはおいしいけれど、カロリーが高い。
「これ、使っても?」
何に使うか想像できなくて料理長は困惑していたが、快く許可してくれた。
――ギリシャヨーグルトがあるなら、カロリーは徹底的に控えめにしよう。
手にしていた油を倉庫に戻し、塩コショウとマスタード、酢とヨーグルトで「低カロリーマヨネーズ」を作った。
「このソースに、ハーブとはちみつ、レモンジュースを加えて……」
「お嬢……ララ、これは?」
――お嬢さまって呼びそうになったわね?バレちゃうから気を付けてくれなきゃだめよ。
少しだけきつくなった視線に慌てた料理長を見つめ、にっこり笑う。
「サラダドレッシングです。」
「ドレッシング?」
「はい、サラダにひと工夫ですよ。みなさんにも作りましたから、食べてみてください。」
食卓に革命を起こしたララは、調理場でも信頼を得て、厨房への立ち入り制限をなくすことに成功した。
――これで、おいしいものが食べられる!
折れそうになった心が美味しいもので回復していくのがわかる。
「美味しいは正義よね。」
寝支度を整えて思わずつぶやいた言葉に、タニアが笑った。
「お嬢さまが、正義ですよ。」




