1. 惨めなわたし、死にました
「お前、うざいよ。」
五年尽くした彼の最後の言葉が、脳裏をこだまする。
ひどい雨が全身を刺してずぶぬれだ。でも、わたしにはもうそんなことを気にする余裕もない。
「終わったんだ……」
社会人になって初めてできた恋人は、とても優しい人だった。料理を褒めてくれて、手伝うと感謝してくれて、少し遠慮気味に笑ってくれるのが好きだった。
――いつから笑わなくなったんだろう
もうずっと、彼の笑った顔を見ていなかったことに気づく。
会う時間もずっと減っていた。
「見ないフリ、してただけなんだ。」
――もう、終わってたんだね。
そんな思いがなんだか腑に落ちた気がした瞬間、視界が真っ白になる。つんざくような大きな音がして、それがトラックの警笛だと気づくのに数秒かかったかもしれない。
「あっ」
小さくつぶやいた気がする。けれど、わたしの意識はそこで途切れた。
あたたかい風が頬を撫でた感覚に目が覚める。
「ここ、どこ?」
聞き覚えのない声がした直後、大きな声が重なる。
「お嬢さまっ!」
――お嬢さまってなんの冗談よ。
苦笑いしそうになって、身体を包む上質なシーツに気づく。
ゆっくりと身体をおこすと、絶対に自分の趣味ではない可愛らしいパジャマを着ている。
――シルクだよね……これ。
その肌触りに驚く。
「ご気分はいかがですか?」
心配そうに顔を覗き込む女性は、二十代前半だろうか。
――この人、誰だろう。
知らない人だけれど、これほどまでに心配させてしまうのが、なんだか申し訳ない気がした。
ズキン
激しい痛みにめまいがする。
「お嬢さま、無理をなさらずにお休みください。旦那さまと奥さまには報告しておきます。」
――この人、一体何を言っているんだろう。
そんな疑問は、痛みともやがかかったような不快感に埋もれていった。
そしてわたしは、再び意識を手放してしまった。
ゆっくりと浮上した意識に、今度は自分の居場所と状況を少しだけ理解する。
眠っている間に、アップデートされたように、この身体の人物の記憶が自然と流れ込んできたからだ。
「うわぁ、ホントに銀髪だ。」
鏡の中の自分にため息が出る。
「細い柔らかな銀髪に、この紫の瞳。びっくりするくらい美少女だわ。」
呟きながら、他人事として自分を見ていることに苦笑いがこぼれる。
意識はまごうことなきアラサーだというのに、目の前には美しい少女がいるのだ。
――まさかこれ、ラノベによくある異世界転生……とか!?
「いや、ないない。」
自分の発想に自分で突っ込みを入れてしまう。
でも、それ以外に説明がつかない。
「ララベル!」
鏡の前で百面相をしていると、同じ銀髪の青い瞳の女性が部屋に入ってきた。
「お母さま。」
無意識につぶやいて、この女性が母だと知る。
「お父さまも。」
――勝手に言葉が出るって不思議。
貴族らしくなどふるまえないのだから、自動で令嬢モードになってくれるのはありがたいが、戸惑いも大きい。
「もう、いいのか?」
父である男性が、心配そうに声をかける。
「すみません。まだ、混乱しているようです。」
紫の瞳は父譲りなのだろう。優し気な眼差しに安堵する。
「ララベル。ゆっくり休めばいいのよ。何も心配しないで。」
母に抱きしめられて初めて、自分がララベル・ウィンスランだと実感した。
――あたたかい。
ぬくもりが、ゆっくり身体の感覚を取り戻してくれる。
同時に、生々しく突き刺さった雨の感覚が蘇る。
――痛い。
思わず背中へ腕を回す。柔らかく包んでくれるその優しさに、涙があふれだした。
「わたし……」
名を自覚してようやく、西島みつきという存在がこの世にいないことを理解する。
あふれ出す涙のとめ方を忘れたように、泣きじゃくっていることに戸惑うことしかできない。
「ごめんなさい。」
泣き出した娘に困惑する両親を前に、小さくつぶやくしかできなかった。
アラサーの自分が、ポロポロと涙をこぼしたところで可愛くもなんともないのだが、この姿はどう見ても十代。
――泣いても許される……よね。
ラノベによくある異世界転生。
けれど、わたしは何ひとつ思い出せなかった――物語の内容も、登場人物も……そして、キーイベントになるはずの出来事も――何ひとつ、思い浮かばない。
――なにもわからない。でも……今はただ泣きたい。
今だけは泣かせてほしい……そう思ったら、また涙があふれた。
愛して、尽くして、捨てられた西島みつき。
その人生は、終わりを告げた。
泣きたいだけ泣こう。
西島みつきだった、わたしのために……
――そう。
惨めなわたしは今日、死んだのだ。




