アラゴンとミシェル
ジャスパーの尾は日射しの下では、色の濃いルビーのように輝いていた。うろこは一枚一枚が金属板のように硬く、縁は触れると手が切れることもあるほど鋭い。
うろこの苔取りはドラゴンの世話の一つになっているけど、もちろん手袋必須の仕事だ。
その尾が、勢いよくわたしの方へ振られて飛んでくる。
わたしに避けるなんてことは、到底できなかった。
だって、わたしは運動音痴だし、何よりこの身体はパールという十才の女の子のものだ。
どれだけ機敏に動こうと思っても限界がある。
わたしは大きく目を見開き、膝立ちの状態のまま硬直した。
――ああ、もしかして・・・・・・この世界でもわたし・・・。
もし、この世界で死んだらどうなるんだろう。
わたしは、元の世界でトラックに撥ねられたんだと思う。それで、今はおそらく意識不明の重体とか、昏睡状態とか、そういう身の上なわけで、この世界はその間に見ている“夢”だと思うんだけど。
――でも、夢の中で死んだらどうなるの?
普通の夢ならそこで目が覚める気がする。けど、この夢は普通じゃない。
今までずっと認めたくなかったけど、わたしはこの瞬間、初めて認めた。
――この夢は、真実だ。
――わたしの見ている夢だろうと、そうじゃなかろうと、この夢の中に生きている人たちや、この世界にいるわたしは、本当に生きている。
もし、わたしが今死んでしまったら、クリスティーヌはとても悲しむだろう。
ジェダイドも、あんなにパールのことを心配していた。もしかしたら自分のせいだと思ってしまうかもしれない。
――それに、何より・・・・・・。
わたしの目に映るジャスパーの尾は、スローモーションの映像のように近づいてきている。
風圧にわたしの前髪が逆立つ。
倒れていたステラが、わたしの方を見て、何か言いたげに口を開けていた。
――ああ、わたし・・・・・・死にたくない、な・・・。
実はこの世界へ来てから、夢から覚めるなら死んでみてもいいかもしれない、なんて思ったときもあった。
だって、この世界ってわたしの常識では考えられない不可思議な場所なんだもの。
魔法、ドラゴン、子供の姿の自分。誰のことも知らず、誰のわたしのことを知らない世界。
これから先、どうすればいいのかもわからないまま、身一つで放り出されたみたいな不安な気持ちでいっぱいだった。
でもそれって、元の世界でも同じだった。
わたしには将来の自分なんて一年先だってわからなくて、受験した大学にも落ちて、よりその不安が強くなって、もう手詰まりのゲームをしているみたいに、絶望的な気持ちになっていた。
――死ねば元の世界に戻れるのなら、死んだっていい?
――ううん、そうじゃないよ。
――わたし、この世界でだって、死にたくなんかない。
ジャスパーの尾の先が、わたしの頬に触れそうになる。
跳ね飛ばされる、そう思ったときだった。
「ストラーダッ!!」
頭上から緊迫した声が響き、わたしの前に何かが現れた。
何か、は目に見えるものではなく、その気配みたいなものを感じたんだけど、透明なガラスの板が突然現れたみたいに、ジャスパーの刺々しい尾がそれにぶつかって撥ね返り、窓ガラスが砕けるような激しい音がした。
尾がぶつかったわけでもないのに、そのガラスのようなものが割れた衝撃で、わたしは勢いよく後ろに吹き飛ばされた。
背中から地面に叩きつけられる、そう思った。
けど、少し柔らかいものにぶつかり、わたしは首を仰け反らせて頭上を見上げた。
黒髪の男の人がわたしをうまく抱きとめていた。
「アラゴンッ!!」
男の人はわたしを胸に抱き込んだまま、上空に向かって叫んだ。
「大人しくさせろッ!」
「わぁってるッ!!」
頭上から返事があり、わたしはその方向を見上げた。
――・・・・・・えっ!?
上空に飛んでいるのは、ドラゴンではなかった。
白と薄茶と濃茶色をした巨大な鳥の上に人間が立っている。
白い杖を手に、その人が魔法を唱える。
「クラッドッ!!」
杖が振られた途端、野原にいたステラとジャスパーが悲鳴を上げた。二頭とも首を上げ、苦しげに首輪を前足の爪で掻きむしり始める。
その間に、大鳥がわたしたちの方へ降りてきた。
羽ばたく翼の風圧で、わたしを抱いていた男の人が一歩後ずさる。けど、なぜかわたしはすっかり安心していた。だって、この男の人、かなり腕ががっしりしていたし、わたしをしっかりと抱きすくめていたから。
側に降りてきた大鳥は猛禽類らしく、鋭い顔つきをしていた。鷲と鷹の区別がつかないから、とりあえず肉食系だな、ぐらいの認識だけど。
「ミシェル、パール、大丈夫か?」
鳥の背から飛び降りた男の人は、二十歳そこそこか、もうちょっと若いか、といった感じに見えた。栗色のちょっと長めの髪に、身体にぴったり誂えたような黒いスーツを着ている。同じ黒の短いタイが首を飾っていた。
彼は近づいてくると、まだ抱っこされているわたしに言った。
「パール、聞いてるのか? ケガしてないだろうな?」
わたしは目をぱちぱち瞬かせた。
――この人、わたしのこと知ってる?
不思議そうに見返しているわたしから、男の人は知人の方を見上げた。
「おい、ミシェル、おれ間に合ったよな? こいつ、呆けてるみたいだぞ?」
「ええ、間に合いましたよ。間一髪でしたけどね」
「だよな!」
もう一度、男の人がわたしの顔を覗き込む。
「パール、そんな顔するほど怖かったのか?」
わたしは喉をこくんと鳴らして一度、気を取り直してから答えた。
「あ、あの・・・助けていただきありがとうございました」
「ハ?」
「おやおや」
二人の男が顔を見合わせる。
と、突然、わたしは向かいにいた男にひったくられるように、抱き上げられた。
「ひゃっ!」
驚いたわたしに構わず、栗色の髪の男がわたしを乱暴にぶんぶんと激しく上下に振り立てる。
「おい、パール! おまえ、どうしたんだ!? 何かおかしなものでも食べたか!?」
ものすごい腕力で身体を上下に揺すぶられる。
わたしは気持ち悪くなりながら、相手の肩を掴んだ。
「や・・・やめてくださいッ!!」
男に問答無用で揺すぶられていると、わたしを抱きとめた人が言った。
「アラゴン、やめないとパールが気絶しそうですよ」
「ん? ああ、そうか」
ようやく地面に下ろしてくれたけど、足がよろけてその場に座り込んでしまう。
――ううう、ひどい・・・・・・。
「それにしても、こんなところで何をしていたんですか?」
向かいの乱暴者とは対照的に、やさしげな黒髪の人が訊ねてくる。この人も黒いスーツを着ていた。胸元に白い花のコサージュを付けている。
わたしは振り返り、答えた。
「ええっと、わたし・・・・・・学校の騎乗実習で・・・」
「ああ、なるほど。ゴーヤン先生のドラゴン騎乗実習の途中でしたか」
ものわかりの早い黒髪の人に、わたしがこくんとうなずく。
「しかし、パール。どうやら君はぼくたちのことを忘れてしまったように思えるのですが――」
そこで、栗色の髪の男が叫んだ。
「そうなのか、パール!?」
わたしは申し訳なく思いつつ、またうなずいた。
「すみません。あの、わたし・・・・・・」
黒髪の人が微笑む。
「パールが記憶をなくしたという噂はぼくたちも聞いていました。何も謝ることはありません」
「えええっ! おれはイヤだぞ、パール!!」
騒ぎ出すアラゴンと呼ばれた男を、黒髪の人が睨みつけた。
「そんなことを言っても、なくしたものは仕方がないでしょう。よほどのことがあったのでしょう」
「よほどのことって何だよ!?」
「知りませんよ。とにかく、パールにケガがなくてよかった」
「それはそうだな」
二人の男に見下ろされて、わたしはようやく立ち上がった。
「あの、それで、すみませんが、あなた方は誰なんでしょうか?」
わたしの問いに、二人はにこりと笑った。
栗色の髪の男が先に名乗った。
「おれはアラゴン。アラゴン・カルサイトだ。おまえと同じティグリス学士院の上級生で、おまえのことはこ~んな小さな時から知ってる」
アラゴンは親指と人差し指を二センチほど隙間を開け、近づけて見せた。
すると、黒髪の人が苦笑した。
「そんな小さな時からではないですけどね。パール、わたしはミシェル・ダザンといいます。ミシェルと呼んでください。前のあなたもそう呼んでくれていましたから」
「はい、ミシェルさん」
わたしが律儀にそう答えると、ミシェルは青い瞳を細めて微笑んだ。
「素直で可愛らしいところは変わりませんね」
なんだか気恥ずかしくなってきたんだけど、もしかしてミシェルさんは、人を褒めるのが得意な人かな。わたしは他人にお世辞すらろくに言われたことがなかったからか、免疫がなくて、褒められると返答に困ってしまう。
「そ、それはどうも・・・」
照れているわたしに、アラゴンが周囲を見回しながら言った。
「それで、あいつはどこにいんだ?」
「あいつ?」
「あいつだよ、ジェダイド」
わたしはハッとした。
――そうだ、ジェダイド・・・・・・。
――それに、ステラとジャスパーは!?
小柄なわたしの視界を覆っていたアラゴンを押しやり、野原の中央を見ると、ステラとジャスパーが力なく、ぐったりと横たわっていた。
「ひゃああぁぁぁぁぁっ!!」
驚いたわたしはステラの元へ駆け出した。
「ステラ!!」
ステラの頭に飛びつき、左目を覗きこむ。すると、ステラは閉じていた目を開いて、わたしを見た。
「大丈夫? ステラ!」
ステラは口を閉じたまま、ぐるぐると唸った。どうやら大丈夫そうだ。
「大丈夫だって、首輪をちょっと締めつけただけだ」
背後から付いて来たアラゴンが言い、ミシェルもうなずいた。
「そうですよ、パール。ステラもジャスパーも大丈夫です。暴れたことを反省して大人しくしているだけです」
ほっとしたわたしはステラから離れた。再度、二人にお礼を言う。
「アラゴンさん、ミシェルさん、ありがとうございました。わたしじゃ、何もできなかったから、きっと二頭ともケガしちゃってたと思います」
「おいおい、まずは自分の心配しようぜ。おまえ、顔の肉、削がれるとこだったんだぜ」
アラゴンの言葉にわたしは顔をひきつらせた。
「アラゴン、怖がらせてどうするんです」
「悪い、悪い、そういうつもりじゃなかったんだけどな」
ハッハッハッとアラゴンが大仰に笑う。
――なんだかこの二人、本当に性格真逆かも。
アラゴンは笑顔で、わたしの方へ腰を屈めると、また抱き上げてきた。
「わわっ! あの、アラゴンさん!?」
「怖い目に遭ったんだから、もう今日はいいだろ。学校に帰ろうぜ」
「えっ?」
スタスタと歩き出したアラゴンは、わたしを大鳥の方へ連れて行き、背に放り上げた。ぽいっと、まるで荷物みたいに。
「あ、あの・・・・・・?」
「いいから、いいから」
そう言いながら、アラゴンも大鳥に乗ってくる。
「いや、あの、そうじゃなくて、わたしジェダイドを待っていないと」
「ああ、そっちか」
アラゴンはわたしの言葉を聞いて、野原にいるミシェルに言った。
「おい、ミシェル。おまえはジェダイドとステラで帰って来い」
「わかりました」
ミシェルが平然とうなずく。
「えええっ!? あの、困ります!」
「いいから、いいから」
アラゴンは取り合おうとしない。
「いや、あの、よくないですよ。わたし、ジェダイドと・・・・・・」
「ジェダイドがおまえを放って行ったのがよくない」
「それは、わたしが・・・・・・」
ドラゴン酔いをしたからで、ジェダイドは全然悪くない。
けど、そんな説明をする時間は与えてもらえなかった。
アラゴンはわたしの意見など聞く気もないのか、さっさと大鳥の手綱を引っ張ると、羽ばたかせ始める。
「パール、ドラゴンよりこっちの方が乗り心地いいぞ」
そう言って、アラゴンが大鳥を操り、わたしたちは一気に野原の上空へ飛翔して行った。




