ジャスパー2
――重い。重すぎる。無理。もう死んでしまいそう。
わたしは目をぎゅっと固く閉じて、苦しさが遠のくを待った。
ふいに、鋭い声が聞こえた。
「どうしてちゃんとできないの!」
叱り声に顔を上げ、目を開く。
黒い鍵盤に手を載せたまま、わたしはうつむいていた。ピアノの前で。
「練習して来ないからでしょう!」
鬼婆のような顔をして、貴子先生がわたしに詰め寄る。
わたしは黙ってうつむいている。
練習ならもちろんちゃんとしてきた。週に一度、わたしは有名音楽大卒の貴子先生にピアノを習っていて、その日のために毎日、家で一日四時間以上、ピアノの前に座っている。
今、練習しているのは、全国音楽コンクールのための課題曲と、貴子先生が選んだラヴェルとリストの曲。三曲ともものすごく難しい。
正直、学校の勉強に部活の吹奏楽、そしてこのピアノとわたしは目が回りそうなほど忙しかった。
何度か練習すれば完璧に弾けるような天才ならよかったけど、わたしは練習しても指がうまく動かないときがある。何度弾いても、そこで指がもつれて停まってしまうのだ。今日もそうだった。
言うことをきかない指にイライラしながら、貴子先生に同じフレーズを繰り返し弾かされる。速く、ゆっくり、また速く。速くなるとどうしても違う鍵盤を叩いてしまう。
間違えるたびに怒鳴られるし、自分に腹立たしいしで、わたしは半泣きだ。
わたしは母親の薦めで、他にもいくつか習い事をしたけど、エレガントに見えるピアノは実はスポーツ競技と同じく、結構過酷だ。腱鞘炎になる人も多い。
それに有名な先生だと、生徒数も多く、スケジュールも詰まっている。今だって次の生徒がもう着いていて、わたしの練習風景を部屋の隅に置かれたソファで聞いていた。
わたしとそう歳の変わらない高校生の男子だ。叱られて泣きそうになっているのを見られるのは、本当につらい。
でも、わたしも小学生の女の子が泣かされているのを見たことがあるし、中学生が手を叩かれて泣きながら途中で帰ってしまったのを見たこともある。
人に何かを習うっていうのは、そういうことなのかもしれない。自分のふがいなさやできないことを知って、それでも奮起してやり続けられるかどうか。
わたしは五才からピアノを始めて、褒められたことが一度しかない。たった一曲だけ。弾き終ったときに、「とても素晴らしかった」と貴子先生に言われた。
心からそう思っているのは、その言葉を聞いたときにわかった。
貴子先生はいつものように腕を組んでいたけど、目を閉じて顔を上げ、微笑んでいた。
わたしは嬉しくて泣きそうになってしまった。でも、褒められたのは、その一度きり。
あとは罵倒され、手を叩かれ、譜面を真っ赤に赤ペンで塗りたくられる日々だ。
多分、だったらもう辞めてしまえばいいのに、って言われるだろう。だけど、わたしがずっと続けていることはこれしかなくて、これ以外に何の取り得もないから、辞めるわけにはいかない。
それに、辞めたいと言ったことはあるけど、ママに辞めさせてもらえなかった。
仕方なく、パパに辞めたいと言ったら、「だったらおまえ将来どうするんだ?」と逆に訊き返されてしまった。
そういうことなのだ。わたしはピアノと一体化している。ピアノを弾けることが、わたしにとって唯一の価値。だから、わたしは必死に練習するし、友達とカラオケにも行かないし、映画館にも行かない。他の子みたいに彼氏を作ったり、家族で旅行に行ったりもしない。
――でも、それって・・・・・・・・・・・・。
なんだかとても身体が重い。肩や背中にとてつもなく大きな石を背負っているみたい。
息が詰まる。胸が苦しい。
――ピアノを弾くのは嫌いじゃない。
何度も何度も練習した曲を、流れるように淀みなく、自分の思うがままに弾けると、音の中に意識が溶けてしまいそうなほど幸せな気持ちになれる。
――だけど、そのためにすべて捨ててしまっていいの?
考えちゃいけないってずっと思っていた。他に楽しいことがいっぱいあるかもしれない。学校にいる隣の席の女の子みたいに、好きなアイドルの話をしたり、気になる男の子に毎日ドキドキしたり、そういう生活。
――ああ、すごく身体が重いよ。起き上がれない。
気づくと、わたしの前にあったピアノがなくなり、草と土の匂いがして、雑草の中に顔を突っ込んでいた。地面に突っ伏している、そう思った途端。
グワァァァァァッッン!!
轟音に鼓膜がびりびり震えた。
「な、何!?」
伏せていた身体を起こすと、わたしは目の前の光景に唖然とした。
二頭のドラゴンが取っ組み合っている。
濃灰色と赤褐色のドラゴンだ。
「えっ? どうなってるの!?」
混乱したわたしは辺りを見回した。山の中腹にある野原だ。
ピアノも貴子先生の姿もない。
「あ、そうか、わたし・・・・・・ジェダイドと・・・」
気づいたわたしの数十センチ前を、太いステラの尾がビュッと風を切って横切った。
「ひえっ!!」
座り込んだままお尻で後ずさる。
「こ、これって・・・・・・」
ステラが聞いたこともない声で咆哮している。
それに呼応するように、ジャスパーも吼えている。
二頭のドラゴンは鼻先に噛みつこうと、後足で立ち上がり、前足の爪を相手の皮膚に突きたてていた。
「ステラ・・・・・・? どうしちゃったの!?」
とにかく暴れているステラを止めようと、わたしは立ち上がろうとした。けど、力が入らない。貧血なのか、わたしはその場に膝をついた。
「お願いだから、ステラやめて!」
叫んでみるけど、ステラはジャスパーの頭を前足で殴りつけ、ジャスパーが恐ろしい唸り声を上げながら尾を振り回している。
体格差のせいか、ステラはジャスパーの尾を横腹に喰らって、草の上に横倒しになった。
土埃が噴き上がり、わたしは両腕で顔を覆った。
――どうしよう、このままじゃ、どっちかが怪我しちゃう。
「ステラもジャスパーもやめてッ!!」
わたしは全力で叫んだ。
すると、倒れたステラに噛みつこうとしていたジャスパーがこっちを向いた。
金色の瞳が猫のように縦長に細まった。その瞬間、ジャスパーの硬いうろこに覆われた尾がわたしの方へ飛んできた。
凄まじい速さで、わたしには避けようもなかった。
ただ、その尖った尾の先を目を見開いて見つめていた。




