ドラゴンの尾
ジェダイドが行ってしまって、わたしは地べたに座ったまま放心していた。
後ろの檻には息絶えた黒いドラゴンがいる。
肉切りの音もしない今、聞こえるのは他の檻にいるドラゴンたちの呼吸と、身動きするカシャン、カシャンという音ぐらいだ。
わたしは涙と鼻水にまみれた顔を手で擦った。それからよろよろと立ち上がる。
――なんだっけ・・・・・・ジェダイドが何か言ってた気がする・・・。
なぜか額がひりひり痛んだ。地面に擦りつけたことは覚えていなかったので不思議だった。
何をするでもなく、わたしはしばらくその場に突っ立って、ぼんやりと厩舎の中を見回した。
高い天井の梁とか、四、五メートルは上部にある並んだ窓から見える抜けるような青い空とか、ジェダイドが出て行った扉(戸は開いたままだった)、そして水場の前に置かれた八つの桶。
桶には牛の肉がこれでもかというぐらい積んである。
――ああ、そうだ・・・餌やりをしなきゃいけないんだ。
ジェダイドが餌やりしてから、先生を呼びに行けばよかったのに、とわたしはちょっとふてくされながら思った。だって、桶は重くてわたしが持ち上げられないことを彼は知っている。二人でやるならまだしも、一人でこれだけの量を運ぶのはかなり厳しい。
でも、言われたからには仕方がない。わたしは暗い気持ちを少しだけ心の端っこに追いやり、ドラゴンの餌である肉の方へ寄って行った。
――近くで見ると、まさに獣の食事って感じだなぁ。
あまりまじまじと見ると、牛のどの部位かわかって気持ち悪くなりそうなので、目を逸らす。
桶の取っ手を掴むと、昨日やったように、わたしはまず上に引っ張ってみた。びくともしない。
――わかってたけど、重すぎるよ。
今度は横に引いてみる。少しだけ、ずずずっと底を地面で引きずりながらも動いた。
――でもこの方法だと、また転んじゃうかもしれないよね。
そうなると、ジェダイドのいないこの状況下では、確実にお肉はわたしに降りかかることになる。
――イヤだなぁ。
うう~~んと、わたしは桶から手を離し、唸った。
「そうだ!」
と、良い事を思いつく。
「後ろから押して行けばいいんじゃない!?」
ここから一番近い檻のドラゴンのいる方へ押してみる。
桶はこれまたびくともしなかった。
「ダメか」
やっぱり中の肉を一つずつ運ぶしかないようだ。
わたしはちらっと桶の中を覗いた。
わたしの頭半分ぐらいの大きさの肉塊が見えるだけでも六、七個はある。
「一度に二つは持てるよね」
それでも、三回か四回は往復しなきゃならない。
「ジェダイドめぇ」
わたしはきつい仕事を言いつけて、ジェダイドはそそくさと逃げたんだと思うことにした。だって、そうじゃなきゃ、こんな大変なことを成し遂げる気力が出ないんだもん。
わたしは水場に置いたままのジェダイドの使っていた汚れた水色のエプロンをかぶり、桶の前に戻ると、お肉を一つ、素手で持ち上げた。
ゴム手袋なんてものはないし、どうせ手首にはすでに血がついている。手も顔も鼻水と涙まみれ。多少、汚れたところで変わらない。
掴んだ肉をエプロンの前を広げて置き、もう一つも掴み上げる。エプロンで二個を包むようにして持ち、わたしはすたすたとドラゴンの檻の方へ向かった。
五つ並んだ檻のちょうど中央にいるドラゴンだ。近づくのが怖くて、三メートルほど手前で立ち止まる。
――檻の下に放り込む。檻の下に放り込む。
わたしは何度か頭の中でシミュレーションしてみた。肉を投げ入れるところを。なんとなくうまくいきそうだけど、もうちょっと近づいた方がいいかもしれない。
三歩ほど近づき、わたしはエプロンの前かけの包みを開いて、大きな肉を手に取った。
「桶じゃなくてごめんね」
と、声をかける。
桶のまま檻の中に入れられれば、床に敷いた藁が汚れることもない。だからみんなそうしているのだろう。
わたしは肉を掴んで思い切り投げた。ソフトボールみたいに下から投げると、肉はその重さでぼてっと檻の戸の手前に転がった。
「あれ?」
首をかしげて、わたしはもう一つの肉を手に取り、再度投げた。
今度は最初よりはうまくいった。ただ、狙った餌入れ用の穴の端にぶつかり、これまた檻の前の地面をぼてぼてっと転がった。
「あれあれ?」
この場合、どうすべきなんだろう。わたしは眉を寄せた。檻の前まで行って、肉を放り入れてこなきゃならなくなったよね。そんなに檻に近づいて大丈夫かな。
わたしは前にジェダイドが言った脅しを忘れていなかった。噛まれたら身体が二つになるってやつ。
――ううん、でも檻があるから噛まれることはない、よね。
中に手を突っ込まなければ大丈夫なはず・・・。多分だけど。
渋々、身体をちょっと屈めて、抜き足差し足の忍者スタイルで近づいて行く。
中のドラゴンの様子が、少しずつ格子の間から見えてきた。
あの黒いドラゴンの二倍はある巨体で、色は少しクリーム色がかった白色をしている。明るい場所なら銀色に見えるかもしれない。そして、目は金色だった。そう、目が見えた。目が・・・・・・。
――目が合ってるんだけど、この場合はどうすればいいの?
わたしは抜き足差し足忍び足をぴたりと止めて、ちょっと腰を落とした姿勢のまま硬直した。
ドラゴンは檻の中で、かなり頭上から、わたしを見下ろしていた。お座りのような態勢で、頭を少し下に向けている。
首を精一杯後ろに傾けたわたしからは、ドラゴンの大きな薄く開いた口の先と、とがったたくさんの歯、それに金色の左目が興味深そうにこっちを注視しているのが見えた。
「あ、あの・・・・・・ごめんなさい、お肉を落としちゃって・・・」
わたしは思わずそう謝っていた。
――・・・めちゃくちゃ怖いよ。どうするの、これ。
――怒ってるのかな・・・?
『ドラゴンの表情の読み方』なんて本があったらいますぐ読ませて欲しい。どうしたらいいかわからないまま、わたしは凍りついたようにしばし、目を合わせていた。
すると、白いドラゴンはゆっくりとさらに頭を下げてきた。伏せをするように檻の中で前足を曲げ、姿勢を低くする。
――余計に怖いよぉぉぉ。
檻が間にあるとはいえ、大きく左右にぱっくり裂けたような口が目の前にやって来る。
「ひ・・・ひぃ・・・」
喉から思わず悲鳴がもれた。
すると、ドラゴンは低く喉を鳴らした。んーんー、と演説の前に喉の調子を見るおじさんみたいに。
それがなんだか可笑しかったので、わたしは目をぱちぱち瞬かせた。
ドラゴンがまた口を閉じたまま、んーんー、と喉を鳴らす。
怖いというより、ちょっと面白い。
「えっと、あの・・・噛まないでね」
なんとかそう告げ、
「わたし、あなたにお肉をあげるだけだから。噛まないでね」
お願いすると、ドラゴンは聞いているのかいないのか、まったく反応しなかった。
鳴くのも止めて、じっとしている。
なので、そうっと一歩前に出て、様子をうかがいながら落とした肉の方へ歩み寄る。
金色の大きな目は、わたしを見ていたけど、体を動かす気配はない。
転がった二つの肉のうち、最初に投げたやつを拾い上げた。ちょっと土がついてしまったので、手でぱたぱたと払う。
檻の下の隙間は三十センチ四方ぐらいあり、わたしは身体を屈めたまま、ゆっくり歩いて行き、肉をぽいっと投げ入れた。
ドラゴンはそれでも動かない。じっとしている。
ホッとして、次の肉も同じように投げ入れる。うまい具合に、二つともドラゴンの口の下に転がった。
思わず、ふぅ! と吐息をもらす。
その直後、白いドラゴンは、ブッホォォォォォッ、と大きな音を立てて鼻息を噴いた。
ぶわっとちょっと臭い息が全身にかかり、わたしは後ろに転がりそうになった。
足を踏ん張って仰け反ったわたしの前に、白いとげとげしたものが、すうっと檻の中から出てくる。
――ん!? しっぽ!?
餌を入れた場所から、ドラゴンの硬そうな太い尾がわたしの前に突き出されていた。




