黒いドラゴン3
ジェダイドはわたしに昨日起こった悲惨な出来事を話してくれた。
「昨日の午後の授業で、ゴーヤン先生が調教のために、あいつを檻から出したんだ。そうしたらひどく暴れて、生徒が噛まれそうになったから、他のやつが慌てて、痺れ魔法をかけたんだと」
「痺れ魔法?」
「生まれて二、三年も経ってれば、かけられても死ぬことはないんだ。数時間で治るし。でも、あいつは体が小さいから全身が痺れて治るのにも時間がかかったせいで、弱っちまったみたい」
「し、死んじゃうの?」
「・・・・・・かもな」
実は、この世界に魔法とか魔術と呼ばれるものが存在することは知っていた。昨日、授業で習ったから。でも四年生が習う魔法は、杖を使って小さな物を浮かせるとか、飲み物の色を変えるとか、その類のささやかなものだった。
――痺れ魔法って何よ。
そんな魔法がもし人間に使われたら、どんなことになるんだろう。赤ちゃんとはいえ、ドラゴンみたいな大きな生き物が死にかけるなんて、とんでもない魔法だ。
わたしはジェダイドに背を向けると、信じがたい気持ちで、すたすたとドラゴンの檻の方へ寄って行った。
「おい、パール! 何する気だ?」
ジェダイドが叫んでいるけど、わたしは足を止めない。
檻の小さな戸の前に行き、格子にぶら下がっている鎖と丸い金色の錠を見た。掴んで引っ張ってみる。
「やめろ、パール!」
エプロンも手も血まみれのまま、ジェダイドが走って来る。
わたしは鎖を思い切り引っ張った。だけど、当然そんなことじゃびくともしない。
「ジェダイド!」
わたしは振り返り叫んだ。
「お願い、ここを開けて!」
「ダメに決まってるだろ! おまえ、おれの話を聞いてたのか? 人間を噛もうとしたから、こうなったんだぞ!」
「そうだけど、すごく苦しそうだよ。せめて、あの鎖をはずしてあげなきゃ」
「・・・・・・・・・」
ジェダイドはぐっと押し黙った。
わたしと向かい合い、両手の拳を握りしめて立っている。
「ジェダイド、ここの鍵を持ってるの? 持ってるなら開けて!」
ジェダイドは立ち尽くしたまま、恐い顔をしている。
「ジェダイド・・・」
「ダメだ」
ついっと顔を背けて呟くと、ジェダイドは元いた水場の方へ歩き出してしまった。
「ジェダイド!」
「ダメだって」
今度はわたしが追いかける。
「お願い、ジェダイド」
またエプロンの紐を掴もうとすると、ジェダイドはその前にわたしの手首を掴んだ。
血まみれの手に掴まれ、べちゃっと濡れた感触がした。
「おまえが噛まれたらどうすんだよ」
「そ、それはそうだけど、あのまま放ってはおけないでしょ」
ハァ、とジェダイドが溜め息をつく。
「歌でも歌ってやれ」
そうジェダイドは言った。
「えっ?」
「昨日、歌ってやってたろ。なんか、こう、変わった曲」
「・・・・・・」
「鍵は開けられない。どうせ、肉も切れないし、餌も運べないんだから、おまえはあいつのところで歌でも歌ってろ」
ジェダイドは手を離すと、水場に行き、また包丁を取る。
わたしは黒いドラゴンの方を振り返った。
ダダンッ!
肉を切る音が聞こえてくる。
――これ以上、言ってもダメなんだ。
わたしは手首についた血を無意識に制服のスカートで、ぐいっと拭き、檻の真ん前に座り込んだ。
格子の間から覗き込むと、床に伏せたままなのは変わらないが、ドラゴンはなんとか動ける範囲で体勢を変えて、頭をこちらに向けていた。
目が合った。
――なんてキレイな生き物なんだろう。
鼻の先にまで被さっているうろこは、一枚一枚が磨き上げられた黒い御影石みたいだ。口から見えているわたしの腕ほどもある牙は鍾乳石のように白くて、よく見ると、濡れた瞳の中に金色のリングが見えた。時折縦長に細くなったり、また環に戻ったりしている。
「かわいそうに・・・」
わたしは思わずそう呟いた。
人間に噛みつくような恐ろしい生き物かもしれない。だけど、このドラゴンが傷ついていることが本当につらかった。
「おまえはきっと、無理やり連れて来られたんだよね。こんなところで死んでしまうかもしれないなんて、ひどいよ」
我慢できなくて、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「好きでこんなところにいるわけないのにね。逃げたくっても仕方ないのにね」
このドラゴンがどこから来たのか、どうして人間に捕まってしまったのか、わたしにはわからない。けれど、これだけはわかる。
「帰りたいよね」
お母さんやお父さんがいるところに、家に帰りたいはずだって。
わたしは目を合わせていることができずに、うつむいて、ぐしぐしと手で顔を擦った。
「こんなの夢だって思いたいよね。もう帰れないかもしれないなんて、考えたくない。おまえもそうでしょう。ここで一人ぼっちで死んでしまうかもなんて・・・、そんな・・・・・・そんな、怖いことない・・・」
わたしは鼻をすすり、さらにぐしぐしと顔を擦った。
目の前から、ふみゃああん、と鳴き声がした。昨日よりもずっと弱々しくて、掠れた鳴き声だった。
わたしは真っ赤になった目を上げて、黒いドラゴンを見た。
こっちをじいっと見つめて、もう一度、なぜかとてもやさしそうな声で鳴いた。
ふみゃああん・・・
わたしは格子に手を突っ込んだ。目いっぱい伸ばして、ドラゴンの垂れた舌に触れると、すごく熱かった。火傷しそうなぐらい。だけど、その舌から手を離さず、やさしく撫でながら、わたしは心の中に浮かんだまま歌い始めた。
突然降ってきた雨にわたしは濡れている
来た道を帰りたいのに
何番線の列車に乗ってきたのか
振り返っても もうわからない
通り過ぎる人たちの顔を追って
霧雨の中を彷徨っている
行くべき場所を教えて
帰るべき場所はどこなの
ここがどこだって わたしの指は凍りついていく
たとえ最後でも モーツァルトが聴こえない
わたしは声を詰まらせた。これ以上は無理。何も歌えない。もう無理。
ぽろぽろ泣きながら、わたしは乾いたドラゴンの舌から手を戻し、その手でまた顔をぐしぐし擦った。
鼻をすすりながら顔を上げると、ドラゴンは目を閉じていた。
ぜえぜえと荒かった呼吸が止まり、頭を少し傾けたまま、幼いドラゴンは眠っているように見えた。だけど、わたしはすぐにわかった。もう二度と目覚めないんだって。
わたしは呆然として、しばらくその眠っているような顔を見つめていた。
二度と、どこにも帰れない黒いドラゴンを見ていた。
それから、突然、心に被せてあった重い蓋が弾け飛んだみたいに、どっと涙が溢れてきた。
――死んじゃった・・・・・・。
――死んじゃったよぉ・・・・・・。
地面に突っ伏すと、
「うあああぁぁぁぁっ!」
と、わたしは辺り構わずに大声を上げた。
「うあぁぁぁぁぁぁん! うあぁぁぁぁぁぁん!!」
と、何度も何度も大声を上げた。
身体がぶるぶる震えてきて、硬い地面に額を擦りつけたまま、わたしは大声を上げ続けた。
でも、一分もしない内に、わたしの中の激情は過ぎ去って行った。わたしは見るも無残になった顔を上げ、また檻の中を見て、今度は息を詰まらせながら静かに泣いた。
どれぐらい経ったかわからないけど、後ろからジェダイドが声をかけてきたのに気づいたときには、わたしはちょっと落ち着いて、また檻の中を見つめて呆然としていた。
「パール」
ジェダイドの声はやさしかった。そんな風に聞こえただけかもしれないけど。
振り返ると、ジェダイドはわたしのぼろぼろの顔を見て、冷やかすでもなく、逆に怒ったようにむすっとした。
「おい、泣き止んだか?」
「・・・ぶん」
うん、と言ったつもりだが、鼻が詰まって声が出にくい。
「じゃあ、おれはゴーヤン先生を呼んで来るから、おまえは餌やりを頼む。肉は切ってあるし、桶に分けてある。裏の一番奥の檻にいるドラゴンには餌はやらなくていい。そいつには薬草入りの肉を先生が一日に一回やってるから」
「・・・・・・」
「桶を運べないようなら、中の肉を一つずつ持って運べよ。それなら力がなくても運べるだろ。檻の下の餌を入れる隙間から放り込めばいいからな。檻の中には絶対に手を入れるなよ」
「・・・・・・」
「おい、パール、聞いてるのか?」
「・・・ぶん」
ジェダイドは不審げな目でわたしを見下ろしていたけど、
「じゃあ、行くからな。おれが先生を呼んで来る間に、ちゃんと仕事しろよ。サボったら承知しねぇからな!」
と告げると、扉の方へ駆けて行ってしまった。
わたしはうなずいたものの、すぐに動き出す気にはなれず、座ったままぼうっとしていた。




