グランディア伯爵の失望
グランディア家にアシュラン家から改めて婚約破棄を申し入れる書状が届いた。事前に話し合いにより、破棄は決定事項であり、覆ることはない。この書状に署名し、王宮に届け出をすればもう婚約はアルベルト有責で破棄となる。グランディア伯爵は痛む頭を押さえながら、そこに書かれていた破棄の理由に目を通す。そうしているうちに、怒りのあまり血管が切れそうになった。
「……アルベルトを呼べ」
全身から怒りが滲み出ている主人を前に、指示を受けた侍従は震えた声で「はい! 直ちに!」と走り出す。
ほとんど引きずられるように侍従に連れられたアルベルトは、執務室に足を踏み入れた瞬間、父の怒りに息を呑んだ。
「ち……父上?」
「アルベルト……。私はお前に言ったよな? エリーゼ嬢を蔑ろにする真似は二度とするなと。婚約者よりも王女殿下を優先するなと……。あれだけ言葉や拳で尽くしたというのに……貴様はなぁんにも理解していなかったんだな?」
顔は笑っているのに、目はちっとも笑っていない。
こんな父親の表情を見るのは初めてで、アルベルトは恐怖のあまり固まることしかできなかった。
「王女殿下の輿入れ先に随行するから、エリーゼ嬢にも着いてきてほしいと言ったそうだな? ふうん……へえ、そんなの初耳だな……。当主である私が知らされていないなんてなぁ……」
「あ、あの……まずはエリーゼの了承を得ようと……」
「了承? ははっ……おかしなことを言う。そんな条件を呑む女性がいるものかよ……。仮に女性本人が了承しても、家族がそれを許すはずがない。そんなことも分からんか……?」
静かな声だが、そこに込められた圧にアルベルトの額から冷や汗が垂れる。
それでも負けじと反論を始めた。
「し、しかし……王女殿下から直々に、『輿入れ先までついて来てほしい』とのご命令を賜りました。王族のお言葉に従うのは、臣下として当然の義務で……」
「このっ……大馬鹿者が! 王女殿下の輿入れ先に随行するなど何を考えている! ふざけるのも大概にせんか!」
とうとう伯爵の怒りが爆発し、あまりの声量にアルベルトはビクッと肩を震わせた。
「そんな……ふざけてなどおりません! 私は殿下の騎士です。どこまでもお守りするのが務めで……」
「何が騎士だ! 命じられたことに何の疑問も抱かず、ただ言われたままに動く人形風情が一端の騎士を名乗るな!」
「なっ……! 父上といえど言い過ぎです! 撤回してください!」
「する必要があるか、ど阿呆が! お前がしていることはただの思考の停止だ。私はお前を王女殿下のいいように動く人形に育てた覚えなどないわ! このグランディア家の面汚しが!」
伯爵の怒鳴り声が部屋に響き渡る。その怒気に恐れをなしたアルベルトは息を呑んだ。
「嫁に行ってしまう王女殿下の護衛より、アシュラン家と縁付くことの方がよほど我が家の利になる。お前は嫡男だというのにそんなことも分からぬのか? 情けない……。実に情けない!」
「私は……何も間違ったことはしておりません!」
「このたわけが! 何もかも間違いだらけだ! その結果がこれだ……愚か者め」
伯爵はアルベルトに婚約破棄の書状を投げつけるように渡す。
それを手に取り、恐る恐る目を通したアルベルトはその内容に目を見開いた。
「こ、婚約破棄……? そんな……エリーゼ、どうして……」
「どうしたもこうしたもあるか! そんなの当然だ! 誰が王女の尻ばかり追いかけている男の妻になどなりたいものか!」
「な、なんて下品な! 撤回してください! 私は殿下に邪な気持ちを抱いたことなどありません。愛しているのはエリーゼただ一人です……!」
「何が『愛している』だ! お前のそれは言葉ではなく、ただの鳴き声だ! 何の心も籠っていない、言葉と呼ぶのもおこがましい薄っぺらいもの。愛している、と鳴けば全て許されると思うなよ!」
「鳴き声……⁉ そこまで言いますか!」
「お前が戯言ばかりぬかすからだ! お前がエリーゼ嬢にしていることは、愛を免罪符に己の我儘を貫く行為だ。よくもそんな屑男のような真似をしてくれたものよ……この恥さらしめが!」
「…………ッ‼」
伯爵の言葉はアルベルトの胸に鋭く刺さった。
己がエリーゼに我儘を言っているという自覚が無かったわけではない。
エリーゼならば許してくれる。愛しているといえば何でもしてくれる。そんな浅はかな想いを父親に見透かされ、恥ずかしさで言葉に詰まった。
「ですが……騎士が主人を優先するのは当然のことです。エリーゼは少々、騎士の妻としての自覚が足りないのでは……」
「騎士の妻としての自覚だと? エリーゼ嬢は我がグランディア家の跡取りの妻になるのであって、騎士の妻になるわけではない。確かに当家は騎士の家系だが、その務めに専念するのは当主以外の男だ。当主が領地を放って騎士の仕事ばかりにかまけていたなら、領民の生活はどうなる? 言ったはずだ。騎士の務めを専念するのは結婚前だけだと。結婚後は騎士を辞めてもらうと」
「あ…………」
父の告げた内容にアルベルトは唖然とした。情けないことに、彼は言われるまでそのことを忘れていたのだ。
「……お前には嫡男としての自覚が著しく欠けているようだな。いや、貴族としての自覚もないのかもしれん。そうでなければ嫡男の責務を放ってまで王女の傍にいようとせぬだろう」
「父上……。私は、ただ……護衛騎士としての務めを……」
「ほう? それはグランディア家の嫡男としての務めよりも優先されるものなのだな……」
伯爵は失望の入り混じった視線をアルベルトに向け、深くため息をついた。
「エリーゼ嬢がお前を見限るのは当然だ。グランディア家の嫡男の責務を全く考えず、国を出ようとするお前にさぞかし失望したことだろう。伯爵夫人となるべく研鑽を積んできたエリーゼ嬢と、次代の伯爵となる自覚すら持たず、何一つ努力してこなかったお前。どう考えても釣り合っておらん。婚約破棄は当然の結果だ」
「ちがいます……! 努力をしてこなかったわけでは……」
「……騎士団に所属前のお前なら、そうだな。王女殿下の護衛騎士になってからのお前は何一つしておらん。殿下の尻ばかり追いかけて、嫡男の責務も覚悟も全て捨てた。それが今のお前だ。こんなことなら騎士団に所属させなければよかった……。単なる箔付けのつもりが……まさかこんなことになるなんて」
深い失望が浮かぶ疲れ切った父親の姿にアルベルトは胸が痛んだ。
父親にそんな顔をさせてしまったという後悔と、自分は本当に取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという思いに苛まれ始める。
「父上、申し訳ございません……」
「……謝るのは私にではない。お前が真に謝るべきは、お前が散々振り回したエリーゼ嬢だ」
「……! エリーゼに、今すぐ謝罪に行って参ります」
「無理だ。あちらはもうお前の顔など見たくないと言っている。それも当然だ。エリーゼ嬢の献身を、そして信頼を何度も裏切り続けた男など、もう視界に入れたくもないだろうよ」
「………………」
父から容赦のない言葉を浴びせられても、アルベルトは何一つ言い返すことができなかった。
何もかもがその通り過ぎて、反論する気力すらおきない。それでも、消え入りそうな声で父親に問いかける。
「もう……エリーゼに会うことも叶わないのですか……?」
「……何を今更。エリーゼ嬢と会う約束を散々破っておきながら、婚約破棄された瞬間にそれか。これ以上恥の上塗りをしてくれるな。それと、もう婚約者ではないのだから名前で呼ぶのはよせ」
父の言葉に頭を殴られたようだった。
今まで散々エリーゼとの約束を破り、会おうともしなかった男が今更彼女に会う資格などない。
頭ではそう分かっていても、心がそれに追いつかず、アルベルトはただ茫然とした。
「婚約は家同士の契約だ。それをこんな形で壊してくれたお前をこのまま嫡男の座に置いておくなどできぬ。お前は廃嫡だ。当家の籍からも抜く」
「……えっ⁉ そんな……父上!」
「これは決定事項だ。お前は忘れているかもしれんが、貴族の子女の身の振り方を決める権限は当主にある。……これだけ好き勝手しておいて、今のままでいられると思うなよ?」
そこにいたのは父親ではなく、一人の貴族家当主だった。有無を言わせぬ厳格な眼差しを見たアルベルトはもはや決定が覆らないことを悟り、力なく項垂れた。
「騎士団を退団するよう、こちらで手配しておく。お前は一兵として国境へ赴け」
「えっ……? そんな……それでは、殿下の護衛は……」
「……この期に及んでまだそれか。王族の護衛は貴族でないと務まらぬ。貴族の籍から抜けたお前にその資格はない」
「そんな……! 殿下は国を離れることに大きなご不安を感じておられるのですよ? それをお支えせずしてどうしますか!」
「不安だからと、夫でも婚約者でもない男に寄りかかるか……。王女殿下は王族としての自覚が足りぬようだ。そんな体たらくでは、嫁ぎ先の国母になどなれぬかもしれんな……」
あまりのいいようにアルベルトは「不敬ですよ!」と責めるも、伯爵は表情ひとつ動かさない。
親としての情を一切失くした当主の顔で息子を見据える。
「これ以上お前と問答する気はない。下がれ。部屋で国境へ行く準備でもしておれ」
「父上、私は……こんなの納得できません」
アルベルトの言葉に伯爵は答えることなく侍従を呼んだ。
「アルベルトを部屋へ。私が許可するまで決して外へ出すな」
主人の命令に侍従は「承知しました」と頭を下げる。そして、納得していない様子のアルベルトを強引に部屋から出した。
誰もいなくなった部屋で一人、伯爵は頭を抱え、再び深くため息をついた。
「育て方を間違ったな……」
その言葉に答える者は誰もいない。深い後悔だけが伯爵を苛んだ。




