どうぞ、これからも王女殿下を優先なさってください
あれからしばらくの間、アルベルトは婚約当初のようにエリーゼを丁重に遇するようになった。
それでもエリーゼの恋心は戻らない。誰かが「一度冷めた女の気持ちは戻りにくい」と言っていたが、それは本当かもしれない。もしかするとアルベルトのこれからの行動で再び気持ちが再燃するもしれないが、今のところはその気配すらない。彼もそんなエリーゼの心の変化に気づいたのか、最近では焦ったように機嫌をとるようになった。
やっと彼の関心がこちらに向いた、と嬉しく思うことはない。
エリーゼの心にあるのは「どうせまたやらかす」という疑念だけ。もう、彼を信じる気持ちは残っていなかった。
*
アルベルトがエリーゼを優先するようになっても彼女の心はもう動かなかった。「できるなら最初からそうしてほしかった」という冷めた思いを抱えたまま、月日だけが過ぎていく。
そうしていくうちにグランディア家の方から「そろそろ結婚式の準備を……」と話が持ち上がり、エリーゼは複雑な思いを抱えながらも準備を始めることとなった。しかし、折り悪くアルベルトが護衛を務めるリアナ王女の輿入れの日が決まり、その準備のため彼はそちらを優先せざるを得なくなる。
「エリーゼ、すまない……。皆が準備に多忙を極める中、私だけ私事を優先するわけには……」
「ええ、分かっております。王女殿下の輿入れは国の慶事ですもの。さすがに今回ばかりはそちらを優先していただいて構いません」
そう言うとアルベルトはパアッと顔を明るくさせ、嬉しそうに「君ならそう言ってくれると思った」とエリーゼの手を握る。
「…………ッ⁉」
アルベルトの手が触れた瞬間、背中に怖気が走り、思わずそれを振り払ってしまった。
「エリーゼ……?」
「あ……申し訳ございません。少々、手に汗をかいてしまったので……」
訝しむアルベルトに「今日は暑いですね」と目を逸らして誤魔化す。
エリーゼは彼に触れられるだけで鳥肌が立つほど、自分が彼を嫌悪していることを自覚した。
こんな状態で彼と夫婦になどなれるだろうか……。不安を覚えながらも、とりあえずは結婚式の準備を始めることにした。
だが……両家の、しかも貴族の結婚式を片方の家だけで決められるわけがなく、特に招待客の調整や花婿側の衣装合わせはエリーゼがどうこうできるものではない。おまけに結婚後はどこに住むのかも決まっていない。
必然的に結婚式の準備自体が延期……という形にならざるを得なかった。
これに、エリーゼは心の底から安堵した。
覚悟を決めて結婚をする気力はなくもないが、出来れば気持ちが整うまで先延ばしをしたかったから。
いや、これ整うのだろうか……。そんな不安を感じつつも、何もしない日々を過ごしていた。そんなある日──
「エリーゼ、結婚式の準備は順調だろうか?」
「はあ?」
時間が出来たとかで会いに来たアルベルトの第一声に、エリーゼは眉を顰めた。
感情を表に出すのは淑女として褒められたものではないと分かっているが、今回ばかりはそうも言っていられない。「こいつは何を言っているんだ」と口に出さなかっただけでも褒めてもらいたいくらいだ。
「わたくしだけで済ませられるようなものではありませんわ。特に招待客の選定や貴方の衣装合わせなどはそちらでやってくださらないと。……一応、その旨をグランディア家にお伝えしたはずですが、聞いていらっしゃらないのですか?」
責めるようなエリーゼの棘のある言葉にアルベルトは返答に困った。
その、軽い気持ちで聞いたと言わんばかりの態度がエリーゼの癇に障る。
「急ぎというわけでもございません。王女殿下をお見送りした後、ゆっくり進めればよろしいではありませんか」
むしろ急ぎたくない、とエリーゼは冷たく言い捨てた。
「あ、いや……出来れば、殿下の輿入れ前に結婚式を済ませたいんだ」
「は? ……何故です?」
急ぐ意味が分からないとばかりに問いかけると、アルベルトは言いにくそうに視線を下に向けた。
「その……実は、殿下の輿入れ先に私も随行することになった。環境が変わり、不安も多いから……しばらくは私に傍にいてほしいと。だから君も、妻として一緒についてきてほしい」
とんでもない発言にエリーゼは開いた口が塞がらなかった。
淑女らしくないなどと言っていられない。一文に有り得なさが凝縮され過ぎていて、最早意味が理解できない。
父親に拳で語られてもなお、自分の愚かさを本当の意味で理解していないアルベルトに呆れを通り越して底知れぬ気味の悪さすら覚えた。
「……正気ですか?」
思わず、そんな本心が口から零れていた。
王女の輿入れに着いていく? 未婚の若い男の騎士が?
嫁ぎ先に喧嘩を売っているも同然の行動に、エリーゼは信じられないものを見るような目をアルベルトに向けた。
「正気って……なんでそんな嫌な言い方をする? もしかして王女殿下に嫉妬しているのか?」
「……いやですわ。正気を疑うような発言を重ねないでくださいまし。もう、嫉妬云々で済むような話ではありません。アルベルト様のなさろうとしていることは、殿下の嫁ぎ先に敵対するような真似ですよ?」
「なっ……敵対だと⁉ どうしてそんな大袈裟にしたがるんだ! そこまで言うほど私が殿下の傍にいるのが嫌なのか!」
「話を逸らさないでください! 大袈裟なことなのですよ! 殿下の輿入れは二国間の友好の証でありますのに、それを壊すような真似を貴方はなさろうとしているのです。どうしてそれが分からないのですか!」
またもや思わず「この馬鹿! 脳味噌砂粒! 考え無しの極み!」とあらゆる罵倒が飛び出そうになるが、何とかそれを抑えた。口にしてしまえばもう抑えきれない。時間無制限でアルベルトを罵ってしまいそうだ。
「君は……そこまでして私を殿下のお傍から遠ざけたいのか? 少し君を優先しないくらいで、そこまで話を飛躍させるなんて……その嫉妬が恐ろしいよ」
あ、もうこいつ駄目だ。話が通じない。
エリーゼは忠告も聞かず、見当違いの返答をするアルベルトに完全に愛想をつかした。
ここまで話の通じない相手にこれ以上説明しても意味がない。どれだけ言葉を尽くしても、彼は己の行動がどれだけ危ういか理解しないだろう。
(もう、これ以上は時間の無駄ね……)
この時のエリーゼの心は驚くほど静まり返っていた。
アルベルトに王女を優先され、軽んじられたとメソメソ泣いていたあの頃が信じられないほどに。
どうしてこんな男に相手にされないことが悲しかったのか。こんな、国家間に平気で亀裂を入れようとする無神経で無配慮な男に捧げるほど、自分の涙の価値は軽くないのに。
「……もういいです。分かりました」
「……ッ‼ 分かってくれたか! 流石はエリーゼ。じゃあ、君も私と一緒に殿下の嫁ぎ先へついて来てくれるんだね?」
「いえ、分かったのは貴方が救いようのないほど愚か者だということです。沈むと分かっている泥船に乗るほど、わたくしは馬鹿ではありません。婚約は解消いたしましょう」
「婚約を解消だと⁉ どうしてそんな話になる? いい加減にしてくれエリーゼ、私だって暇じゃないんだ。今日だってこうして忙しい合間を縫って話をしにきたというのに……拗ねるのも大概にしてくれないか?」
「なら、もう話は終わりですのでお仕事に戻ったらいかが? どうぞ、王女殿下の元へお戻りください」
一切感情の無い冷たい声でそう告げるエリーゼに、アルベルトは息を呑んだ。
自分がまた王女を優先しようとしたから拗ねているのだと叱ったが、目の前の彼女からはそんな感情すら見てとれない。
まるで路傍の石でも見るかのような無関心な視線を向けるエリーゼにアルベルトは言葉を失った。
「わ、わかった……。エリーゼ、あちらの国に入ったら君を最優先に動くと誓うよ。それならばいいだろう?」
「いいえ、結構です」
アルベルトの提案をきっぱりと断ったエリーゼは、もう話は終わりだと背を向ける。
「どうぞ、これからも王女殿下を優先なさってください」
強く、はっきりとして口調でそれだけを告げ、エリーゼは彼の元を去る。
それまで見たことすらない彼女の冷たい拒絶を前にアルベルトは追いすがることもできない。ただ伸ばした手だけが行き場を失ったまま宙に残されていた。




