貴族として守るべきは
夜会から戻ったエリーゼは、父の執務室の扉の前でしばらく立ち尽くしていた。
父に報告しなければならない。けれど、これまでの自分の行動を思い返すと報告するのが恥ずかしくなった。
聞き分けのいい女ぶって、アルベルトに苦言を呈すことも諫めることもできない。
ただ我慢するだけの、弱い自分。名門アシュラン家の娘がそんな体たらくでいいわけがない。
淑女たるもの、理不尽には毅然と対応しなくてはならない。黙って耐えているだけでは相手に軽んじられ、ひいては家門の名誉を傷つけてしまうから。そう、母にも家庭教師にも習ってきた。貴族が何より守らなくてはならないのが家門の名誉だと。
──家の名を守るためならば、貴族は命も惜しまない。
それが貴族たる者の矜持だと、幼い頃から散々言い聞かされてきたというのに、今の自分はどうだ。
愛する婚約者に嫌われたくない。ただそれだけしか頭にない、誇りも矜持も捨てた女。
それが今の自分だと、今この時エリーゼははっきりと自覚した。
(こんな情けなくて、みっともない自分が嫌……。アシュラン家の娘として、このままでいいはずがない……)
エリーゼは両手で頬をパンと叩き、凛とした表情で前を向いた。
「……お父様。少し、お時間をいただけますでしょうか」
執務室の中から「エリーゼか? 入りなさい」という父の声が聞こえた。
エリーゼは小さく「失礼します」と扉を開け、中に足を踏み入れる。
「……その格好はどうした? 着替えていないのか?」
執務机に向かっていた父であるアシュラン伯爵は顔を上げ、そこに立つ娘の姿を見て驚いた。
娘は夜会に出かけた時の姿のままだったからだ。貴族は皆、夜会から戻ればまず身につけた装飾品を外し、窮屈な礼装から解放され、普段の部屋着へと着替えるもの。だから伯爵は華やかなドレスを未だ身に纏う娘に首を傾げた。
「……もしや、夜会で何かあったのか?」
その問いかけに、エリーゼは一瞬だけ視線を伏せる。
ただならぬ様子の娘に伯爵の顔が強張った。
「実は……アルベルト様にエスコートをしていただけなかったんです」
「……なんだと?」
その言葉に伯爵の表情が変わる。夜会において婚約者を伴うことは重要な役目であり、普段はいがみ合う夫婦でさえそれを放棄することなどあり得ないほど当然の慣習で、貴族の常識でもある。
だからこそ、伯爵にはそれを放棄するという選択自体が信じ難いものだった。しかし、娘の顔を見る限り、とても嘘をついているようには思えない。
「なぜだ? なぜ、そんな非常識な真似を……」
「王女殿下が……不安だからお傍にいてほしいと。それで、わたくしのエスコートは……できないと」
「はあ? なんだその……馬鹿げた理由は!」
一瞬、伯爵は己の耳を疑った。不安だから傍にいてほしい? 幼子でもあるまいし、成人した王族が使う言葉ではない。そんなくだらない理由で娘に恥をかかせた王女とアルベルトに伯爵は言いようのない怒りを覚えた。
「まるで子供の駄々ではないか! いつからグランディア伯爵の子息は子守りの仕事に就いていたのやら……」
貴族特有の言い回しを使い、アルベルトを非難する伯爵。そんな父の姿に、エリーゼは少しだけ安堵を覚えた。
王女とアルベルトの行動は他者から見ても非常識なものだと。そう同意を得た気分だった。
「ええ……。会場では、アルベルト様はずっと王女殿下のお傍に……。わたくしは一人で入場しました。周囲の方々からの視線が痛うございました……」
エリーゼの指が、ドレスの裾をそっと握る。
泣きそうな声に、父は娘がどれほど傷ついているのかを理解した。
「……わたくしはアルベルト様のお役目を理解したいと思っております。ですが、それがわたくしを軽く扱われてよい理由にはならないのではないかと……」
「お前の言う通りだ。王女の護衛など、所詮は輿入れ前の児戯に等しい。輿入れと同時にお役御免になるようなお遊びを優先し、お前を……ひいては我がアシュラン家を愚弄するような行いなど断じて許せん」
絞り出すような声でそう言った後、アシュラン伯爵はゆっくりと立ち上がった。
「この件は私に任せておけ。……私の方からグランディア伯爵家へ直接話をしに行く」
「お父様……」
「お前が軽んじられることは、当家が軽んじられることと同義だ。ならば父親として、当主として──先方に抗議する責任がある。場合によっては婚約をあちら有責で破棄させてもらうが……お前はそれでも構わないか?」
伯爵がそう問いかけると、エリーゼは俯き、少しだけ痛む胸をそっと抑えた。
「……はい、勿論でございます。これ以上わたくしが……アシュラン家が軽んじられることなど、許せませんので」
己の中にある恋心が「彼と離れたくない」と囁きかける。
だが、これ以上みっともなく縋り、その度に軽んじられるなど、己の誇りが許さない。
「大切なのは……わたくしの気持ちではなく、家門の名誉です。アシュラン家へ礼を尽くさぬ婚約者など……必要ありません」
恋する乙女の顔から、誇り高き貴族の顔に。
伯爵は目の前の娘の変化に驚いたが、すぐに満足そうに微笑んだ。
「立派だ、エリーゼ。流石は私の娘だ」
伯爵は嬉しそうにエリーゼの頭を優しく撫でた。
そこから伝わる父の温もりに安堵し、エリーゼは大粒の涙を零す。堪えようとしても止めることはできず、次から次へと頬を伝って落ちていく。これまで胸の奥に押し込めていた不安や苦しみが父の愛情によって一気に溢れ出したのだった。
*
その翌日、アシュラン伯爵はグランディア伯爵家へ正式な申し入れを行い、先方の了承を得た後、グランディア伯爵邸へと赴いた。応接室に通されたアシュラン伯爵の表情を見て、グランディア伯爵はただならぬ気配を感じ、息を呑む。
「……本日は、いかなるご用件でしょうか」
そう尋ねたグランディア伯爵にアシュラン伯爵は鋭い視線を向け、口を開く。
「先日の夜会のことで、少々……」
夜会、という言葉にグランディア伯爵の顔に緊張が走る。
確かに先日、王宮で若い貴族向けの夜会が催され、そこに息子とエリーゼが招待されたとは聞いている。配下の者からは特に何の報告も上がっていないので、何も問題が無かったのだと気にも留めていなかったが、目の前に座るアシュラン伯爵の様子から何かあったのだと察せられた。
「貴殿のご子息は我が娘のエスコートを放棄なさったそうですな。婚約者をエスコートすることは社交界の常識だと心得ておりましたが……どうやら貴家では違うようですな」
「……は? え……なんですと? アルベルトがエリーゼ嬢のエスコートを放棄……?」
あまりにも信じ難い話にグランディア伯爵は思わず声を荒らげた。
その声は屋敷に響き渡り、主人の異変を察した使用人が応接間へ駆けつけるほどであった。
「おやおや……ご存じなかったと。ご子息の行動を把握していないとは……如何なものかと思いますがね」
嫌味たっぷりのアシュラン伯爵の言葉にグランディア伯爵は反応することすら出来なかった。
まさか自分の息子がそんな非常識な行動をするなんて、とすぐに受け入れられない。
「も、申し訳ございません……! すぐに息子に確認を……」
「それは私が帰った後、ごゆっくりなさればよろしいかと。まずは私の話を先に聞いていただいてもよろしいかな?」
言外に「こっちは暇じゃねーんだよ。いいから話を聞け」と非難され、グランディア伯爵は小さく「はい……」と情けない声で答えた。
「貴殿のご子息が王族の護衛という名誉ある職に就き、その務めが優先されることは存じております。だが……それは、娘の名誉──ひいては我がアシュラン家の名誉を貶めていいというわけではございません」
「それは……勿論です」
エスコートを放棄するという行為は相手を辱める行為。それは相手のみならず、その家までも愚弄する行為だ。
アシュラン家とグランディア家は同格といえども、社交界での立場は資産家で名門のアシュラン家の方が上である。尊重はすれども貶めるなど言語道断の行い。
まさか、自分の息子がそんな非常識極まりない行動をとっていたなんて……とグランディア伯爵はあまりの衝撃にしばし言葉を失った。
「ご子息に貴族としての務めを果たさせぬ王女殿下の言動にも問題はあると思いますが……それでも『不安だから』という理由ひとつで婚約者の務めを放棄し、お傍に侍る判断は如何なものかと」
「は……? そ、そんな理由で息子を……?」
息子の行動に加えて王女の子供かと思うような発言に、グランディア伯爵はただ唖然とするしかなかった。思わず「嘘だ」と言ってしまいそうになるが、アシュラン伯爵の迫力に口を噤む。
「申し訳ない。話を整理させてください……。えっと、つまり……アルベルトは王女殿下が不安を感じておられたので、エリーゼ嬢のエスコートを放棄し、お傍に侍ったと……」
グランディア伯爵は話していて「いや、馬鹿か?」と言いたくなった。
なんだ、不安って。成人した貴族が言っていい台詞ではない。それに未婚の娘がいくら護衛騎士とはいえ婚約者のいる男にしていい態度ではない。どう考えても節度の無い距離感。まさかそんなことになっていたなんて……と頭を抱えたくなった。
「我が娘は、アルベルト殿の立場を理解し、これまで何も申しませんでした。王女殿下のお側に仕えることもご子息の誇りある役目だと受け入れてきた」
アシュラン伯爵の指がゆっくりと肘掛けをなぞる。
「ですが、婚約者を軽んじてよい理由にはならないでしょう。ご理解いただけているとは思いますが、婚約とは家同士の契約。契約を結んだからには互いに尊重の姿勢がないと、継続は難しいと思いませんか?」
「はい……。おっしゃるとおりです」
要は「これ以上ふざけた真似をするなら婚約を破棄するけど?」と詰め寄られていることはグランディア伯爵にも分かった。婚約を破棄されて困るのはグランディア家であり、アシュラン家はそれほど困らない。
潤沢な資産を保有するアシュラン家と縁続きにはなることは、騎士家系とは名ばかりで資産に乏しいグランディア家にとってどれだけ有難いか。散々言い聞かせておいたというのに、恥をかかせやがってあの馬鹿息子……と怒りが沸々と湧いてくる。
「アシュラン伯爵閣下、愚息がご息女に大変無礼を働きました。不肖の息子に代わり、心よりお詫び申し上げます」
「……謝罪を受け入れましょう。ただ、今後は二度とこのような真似をせぬよう……ご子息にはくれぐれも言い聞かせていただきたい」
「はい……それはもう。愚息にはしっかりと言い聞かせますので……」
あの野郎、許さん。グランディア伯爵は心の中で息子に毒づきながらグッと拳を握りしめる。
そんな厳しい表情の彼に対して、涼しい顔をしたアシュラン伯爵が「そういえば……」と呟いた。
「何故、ご子息は王女殿下の護衛に任命されたのでしょうか……。未婚の女性王族に若い男が侍るなど、あまり聞いたことがございませんな」
「え……? あ……そう、ですね」
どうせ王女の輿入れまでの、いわば腰掛け護衛騎士のような立場だとしてグランディア伯爵はそれに何の疑問も抱いていなかった。それが見て取れるグランディア伯爵の態度に、アシュラン伯爵は呆れたように息をつく。
「失礼。余計な詮索でしたね。それでは私はこれで失礼いたします」
「あ……ご足労感謝いたします」
アシュラン伯爵が帰った後も、グランディア伯爵の脳裏には最後に告げられた言葉が妙に残り続けていた。




