婚約者は王女の護衛騎士
エリーゼ・フォン・アシュランは王都から少し離れた場所に広大な領地を持つ由緒ある伯爵家の息女として生を受けた。
そんな彼女が婚約をしたのは十歳の頃、相手はグランディア伯爵家の嫡男アルベルト。王国騎士団に所属する家系に生まれ、彼は幼い頃から剣術の才能を見せていた。政略によって結ばれた婚約だったが、二人の間には確かな愛情が芽生えていた。
アルベルトは忙しい騎士見習いの身でありながら、時間を作ってエリーゼに会いに来てくれた。
どんなに疲れていても「愛する人の顔を見ると疲れも吹き飛ぶ」と嬉しそうに笑う。
当たり前のように愛情を注ぎ、大切にしてくれる人だったのだ。それが変わってしまったのは、彼が王国騎士団へ正式に入団した時からだった。
「王女殿下直属の護衛騎士に任命された」
そう告げられた日のことを、エリーゼは忘れられない。
「まあ! それはおめでとうございます」
王女直属の護衛、それは騎士にとって名誉ある役目。エリーゼはまるで自分のことのように喜んだ。
ただ、それと同時に疑問を覚えた。
(未婚の王女殿下に、若い男の騎士が侍るの……?)
未婚の王女の近くに、若く、容姿にも恵まれた未婚の男性騎士が常に侍る――それは果たして本当に何の問題もないことなのだろうか。もちろん、彼を疑っているわけではない。王族を守ることは騎士としての大切な務めだ。
それでも貴族社会に生きる者としてエリーゼは考えてしまう。
年頃の王女と未婚の男性が近い距離で過ごすことに、本当に何の問題もないのだろうか、と。
だが、その疑問を口にすることはめでたい事に水を差すような気がして、エリーゼはただ胸の内にしまい込むしかなかった。
「ありがとう、エリーゼ」
嬉しそうなアルベルト。
この時、エリーゼは何も心配していなかった。
自分は婚約者なのだから。彼が愛しているのは自分だから。余所見をするはずがない。そう信じていた。
しかし、少しずつ。彼は変わり始めていく
*
アルベルトが王女付き護衛騎士になってから、数か月が過ぎた。
当初、エリーゼは彼の忙しさを理解していた。王女の護衛という仕事が、ただ後ろに立っているだけのものではないことくらい知っている。だから、以前のように頻繁に会えなくなっても我慢できた。
「アルベルト様が重要な任務を任されているなんて、わたくしも嬉しいです」
むしろエリーゼは喜んでいた。彼の努力を誰よりも応援していたから。
だから、彼女は想像もしていなかった。これから先、彼にずっと約束を破られ続けることなんて……。
その日、エリーゼはアルベルトの誘いで王都の南にある王立植物園へ来ていた。
珍しい花や植物が鑑賞できる名所として多くの貴族が訪れる場所である。
「たまには、二人でゆっくり話をしたい」
そう言われた時、エリーゼは嬉しかった。彼と最後に会ったのは数か月前、任務帰りの彼が屋敷へ短時間立ち寄っただけだったから。
騎士服のまま疲れた顔で現れたアルベルトは、紅茶を一杯飲んだだけで帰っていった。
以前のように、エリーゼに会えたことを喜ぶ言葉をかけてはくれない。表情も固いままだ。
それでも、エリーゼは彼と会えたことが嬉しかった。彼を……心から愛していたから。
彼のお誘いが嬉しくて、エリーゼはいつもより早く起き、丁寧に身支度を整えた。新しく仕立てたレモンイエローのドレスを纏い、鏡の前でそっと微笑む。
以前、彼が「君には明るい色が似合う」と言ってくれたから、この色を選んだ。
「アルベルト様、喜んでくださるかしら」
「ええ。きっと、お喜びになります」
身支度を整える侍女の言葉にエリーゼは小さく微笑んだ。
鏡に映る彼女の顔は恋する乙女そのものだった。
そうしてエリーゼは待ち合わせの時間よりも早く植物園に向かう。
穏やかな日差しの下、鳥のさえずりが響き、風に漂う花々の甘い香りが心地よい。
期待に胸を弾ませながら待ち続けるも、時間になっても彼は現れない。
エリーゼの心に一抹の不安がよぎる。
「お嬢様……」
付き添いの侍女が心配そうに声をかけてきたので、エリーゼは「きっと任務で遅れているのよ」と笑ってみせた。湧き上がる不安を誤魔化すように。
そうして待ち続けること数時間。さすがに昼を過ぎた頃、エリーゼの表情が曇る。
(もしかして……アルベルト様の身に何かあったのかしら……)
約束の時間を過ぎても現れない彼に対して、エリーゼが抱いたのは怒りではなく心配だった。
彼の身に何か起きたのではないか……そう考えると不安で胸が締め付けられる。
すると、エリーゼのもとにグランディア伯爵家の使いが現れた。
「アシュラン家のお嬢様。アルベルト様よりお手紙を預かっております」
差し出された手紙を受け取り、中身に目を通す。そこに記された言葉を追うにつれ、エリーゼの表情はみるみる失われていった。
『急な護衛任務が入り、そちらに行けそうにない。この埋め合わせはまた後日』
たったそれだけの、短い文章。約束を反故にすることや、散々待たせたことへの謝罪すらない。エリーゼは唖然としたまましばらく手紙を見つめていた。
(自分から誘っておいて……これだけ? 謝罪の一言もないなんて……)
怒るべきなのか、それとも悲しむべきなのか、分からない。
これだけ待たせておいて、自分から誘っておいて、こんなにも軽い言葉で済まそうとする彼にかすかな失望を覚えた。
「……もっと早く、連絡をくださればよかったのに」
自然と呟いた言葉に、伯爵家の使いの者が哀れなほど何度も頭を下げた。
この使いの者が悪いわけではない。悪いのは約束を反故にして、エリーゼを待たせたことを軽く扱うアルベルトだ。
エリーゼは虚しい気持ちを抱えながら帰路に着く。
彼が褒めてくれますように、と期待して仕立てたレモンイエローのドレスはこの日以降二度と袖を通すことはなかった。
*
それから一ヶ月後。アルベルトから再び誘いがあった。
「この前はすまなかった。その埋め合わせに、今度の休日は街へ行かないか?」
「まあ……お仕事は大丈夫なのですか?」
以前のように、また仕事を理由に反故にされたらかなわない。
エリーゼは念を押すようにそう問いかけた。
「ああ。休暇を取った」
(今まで休暇らしい休暇もなかったのに、大丈夫なのかしら……)
前回のこともあり、以前より疑うようになってしまったエリーゼだが、彼が自分の為に時間を作ってくれたことは素直に嬉しかった。
「ふふ。では……楽しみにしています」
今度こそ──そう願いながらも、彼女の胸の奥には拭いきれない不安が残っていた。
そうして、約束の日、エリーゼは時間に間に合うように屋敷を出た。
(久しぶりに二人で過ごせる……嬉しい。そうだ、新しくできたカフェに行ってみようかしら)
そんな楽しい想像をしながら待ち合わせ場所に着く。そこにアルベルトの姿はなかったが、まだ時間より早いし……と待つことにした。
しかし、前回と同様にいつまで待ってもアルベルトは現れない。
そうして以前会ったグランディア伯爵家の使いの姿を目にした時、エリーゼはすべてを察した。
「アルベルト様は……今日もいらっしゃらないのですね」
「大変申し訳ございません! その……王女殿下が急遽視察に向かわれるそうで……その護衛を務められるとか……」
「視察? 王女殿下が……?」
男性王族に急な視察の予定が入ることは珍しくない。だが、政治に関わることのない女性王族にそのようなことがあるのだろうか。
「あ、あの……アルベルト様から手紙を預かっておりまして……」
「いえ、それは結構です。彼が急な任務で来られないことは分かりましたから……」
怒りよりも寂しさが滲むエリーゼに使者は何も言えなかった。
差し出そうとした手紙をそのまま懐にしまい、深く一礼し、去っていく。
「……帰りましょうか」
このまま一人で街を歩く気にもなれず、エリーゼは侍女に向かってそう呟く。
侍女は二度もエリーゼとの約束を破るアルベルトに憤慨し、顔を真っ赤に染めた。
「お嬢様との約束を二度も反故になさるなんて……あまりにもひどすぎます! 旦那様にお願いして、先方へ抗議していただきましょう!」
怒る侍女にエリーゼは曖昧に微笑む。
彼女の怒りは正しい。二度も約束を反故にするなど、あまりにも無礼でこちらへの配慮に欠けている。
エリーゼが軽く扱われることは、アシュラン家が軽く見られていることと同義。
貴族として正しい対応は当主である父から先方へ抗議してもらうべきだ。
頭ではそれを理解していても、心がそれを拒む。
エリーゼはまだ──彼を、アルベルトを愛しているから。




