元婚約者と会うこと
あれからエリーゼにはいくつもの縁談が持ち込まれていた。
婚約破棄をしたとしても、資産家であるアシュラン伯爵家の令嬢という立場が揺らぐことはない。
ここぞとばかりにアシュラン家と縁を結ぼうと、釣書を送ってくる家は後を絶たなかった。
エリーゼも貴族の娘として家の利となる婚約を結ぶため、釣書の中から父親が吟味した相手と見合いをすることに決めた。
正直、アルベルトのことを引きずる気持ちはある。
それは彼への未練などではない。以前の彼のように途中で態度を変えてしまうのではないか、という不安だ。
アルベルトはリアナ王女に会う前は本当に普通の令息だった。それがまるで何か悪いものに憑かれたかのように性格も態度も豹変してしまう様は怖かったのだ。
けれどそれで新しい婚約に躊躇している暇はない。貴族令嬢の婚期は平民のそれよりも短く、十代後半には嫁いでないとならない。平民と違い、貴族令嬢には働き口などないのだから。
それに、貴族の娘の価値は政略結婚にある。多額の費用をかけ、美貌と教養を磨いてきたのは、すべて家の利となる結婚をするためだ。価値を失った娘の未来は決して明るくない。よくて修道院、悪くて娼館だろう。
(リアナ王女殿下は秘密裏に修道院へと行かれたみたい……。あのまま王宮にはいられないものね)
リアナ王女が急な病にかかり、療養に入るため急遽第二王女が他国へ嫁ぐことになったと聞いた時は驚いた。国王陛下は随分と思い切ったことをなさった、と。
ただ、それと同時に英断だとも思った。あのままリアナ王女が嫁いだとしても、嫁ぎ先で純潔を疑われることは避けられなかっただろう。王女はすでにアルベルトと深い関係にあるという噂が広まってしまっているのだから。
他の男に手をつけられた花嫁を迎え入れるほど王族は甘くない。残念なことにアルベルトはそれを理解していなかった。自分が王女の傍にいることで、周囲は二人の関係を邪推するであろうことを。
(王女殿下は……何を考えてアルベルトを傍に置いていらしたのかしら……)
エリーゼが王女と言葉を交わす機会は訪れなかったため、彼女が何を考えていたかは不明だ。
ただ、それを聞いたとしても納得の得られる答えは返ってこないだろう。他人の婚約者を必要以上に呼びつける行為に、納得する理由など存在しない。少なくともエリーゼはそう考えている。
「あとは、これ……どうしようかしら」
彼女が手にするのは一通の手紙。あまり上質でない紙でしたためられたそれには封蝋すら施されていない。
送り主は元婚約者のアルベルト。グランディア家から籍を外され、ただのアルベルトとなった彼からエリーゼ宛てに送られたものだ。
内容は要約すると「会って話がしたい」というもの。
国境にいち兵士として送られたと聞いたが、休暇をとったのか一時的に王都に戻れると書いてあった。
いくら過去に好きでたまらなかった相手とはいえ、今はもう彼に何の感情も湧かない。
憎いだとか、まだ好きだとか、そういう気持ちは一切ない。
ただ、彼が今どうなっているのかは興味がある。
貴族の令息だった男が国境という過酷な場所でどのように過ごしたのか、単純に興味がある。
「……他の男性と婚約する前に、一度だけ会ってみようかしら」
彼に言いたいことがあるかと言われたらある。ただ、別に言わなくても構わないという気持ちもある。
もう自分はそこまで彼に関心がないのだな……と思いながら羽ペンを手に取り、返事をしたためた。
*
「エリーゼ……。会ってくれて、ありがとう」
「いえ……お久しぶりです」
応接室へ案内されたアルベルトはエリーゼの姿を見るなり、寂しげな笑みを浮かべた。
どこか懐かしむようで、それでいて悲しそうな表情。そんな元婚約者の顔を見てもエリーゼは何の感情も湧かない。
(……随分とやつれたわね)
久しぶりに目にした彼の姿にはかつての堂々たる風格も、誰もが目を奪われた華やかな容貌も、見る影もなかった。そこにいたのは以前のような自信に満ちた伯爵家の嫡男ではなく、日々の生活に疲れ果てた一人の男だった。
変わり果てた彼の姿に、国境を守る兵士としての日々はさぞ過酷なものであったのだろうと思わずにはいられない。
ただ、彼に対して同情の念が湧くかと問われれば答えは否だ。
「どうぞ、おかけください」
「ああ……ありがとう」
勧められるままアルベルトは椅子に腰を下ろす。ほどなくして侍女が二人の前にそっと紅茶を置いた。
「どうぞ。よろしければお召し上がりください」
「ありがとう……」
アルベルトは差し出された紅茶をしばらく眺めていたが、やがてカップを手に取り、一口含む。
「……懐かしいな」
表情を和らげ、小さくこぼした声にはどこか嬉しさが滲んでいた。
「紅茶を飲むのも……随分と久しぶりだ」
そう言って、アルベルトはもう一度カップに口をつける。温かな香りと懐かしい味わいを確かめるように、ゆっくりと味わっていた。
「……本当は、断られても仕方ないと思ってた」
「そうでしょうね。わたくしも、どうしようかと迷いましたわ」
淡々としたエリーゼの口調にアルベルトは悲しそうに視線を落とした。
そんな彼の反応をエリーゼは鬱陶しそうに目を細める。
「それで、本日はどのようなご用向きで?」
彼女の瞳にかつての熱はなく、まるで路傍の石を眺めるような視線は彼に堪えた。
最後に会った時もこのような目をしていたことを思い出す。
あれほど自分を求め、愛してくれた彼女が今はもう何の感情も向けていない。
その変化を目の当たりにしたアルベルトの胸に遅すぎる痛みが広がっていった。
「……君に謝りたいと思って来た。私は……王女殿下ばかりを優先し、君を蔑ろにしてばかりだった。それがいかに無神経で恥知らずなことだったか、ようやく知った……」
俯いたまま悔恨の言葉を口にする元婚約者の話に、エリーゼは紅茶を飲みながら耳を傾ける。
相槌ひとつ返さず、黙ったままでいるエリーゼにアルベルトは不安げに目を泳がせた。
「エリーゼ……」
「どうしました? お話は終わりですか?」
「あ……いや、すまない。まだ……」
「そうですか。では続けてください」
淡々としたエリーゼの態度にアルベルトは胸が痛んだ。そんな資格はないと頭が理解しても、心が追い付かない。
あんなにも自分に愛を向けてくれた彼女をないがしろにした結果がこれなのだと、アルベルトはようやく思い知った。
「……本当に、今まで申し訳なかった。何度も約束を反故にし、その埋め合わせもせず、挙句の果てに王女殿下の嫁ぎ先にまでついてきてくれだなんて……婚約者としても人としても恥ずべき行為だ。エリーゼ、君を沢山傷つけて……本当にすまなかった」
深く頭を下げるアルベルトをじっと見つめ、エリーゼは紅茶のカップをソーサーに戻す。
「謝罪を受け入れましょう」
「あ……、ありがとう、エリーゼ……」
表情一つ変えず、実に貴族らしい佇まいで謝罪を受け入れるエリーゼ。
アルベルトは望み通り謝罪を受け入れてもらえたというのに、気分は少しも晴れなかった。
というのも、エリーゼの態度は自分の知る彼女とはまるで違い、どこまでも他人行儀だったから。
彼の知るエリーゼはいつも花が綻ぶような笑顔を見せ、こちらの話を嬉しそうに聞いてくれていた。
頬を赤く染め、いかにも恋する乙女といった可愛らしい顔を見せてくれたのだ。
だが、今の彼女はアルベルトに一切の感情を向けていない。まるでその価値がないと言わんばかりに。
──いや、「まるで」ではなく、実際にそうなのだろう。エリーゼは……もう私に何の感情も湧かないのだな。
分かっていたはずなのに、アルベルトは心のどこかで期待していた。
まだ、エリーゼが自分に何らかの感情を向けてくれることを。それが怒りでも憎しみでもよかった。彼女の心にまだ自分がいるのならば。しかし、それはあまりにも都合のいい勝手な妄想だったと、何の感情も浮かんでいない彼女の表情から嫌でも思い知った。
あんなにも彼女を蔑ろにし、王女ばかりを優先した結果がこれだ。
彼女が向けてくれた愛情を失ってしまったという事実は、アルベルトにとって廃嫡されたことよりも辛く感じられた。
「一つだけお伺いしたいのですが……」
「あ……。うん、何だろうか?」
一人勝手に打ちひしがれていたアルベルトは、エリーゼの声に呼び戻されるように顔を上げた。
彼女から声をかけられたことが、彼には予想以上に嬉しかったのだ。今まで彼女からの声を散々無視してきたくせに、この状況になって初めてそれがありがたいと感じる。
「どうして、あそこまで王女殿下を優先なさったのですか? 殿下に懸想でもしていらっしゃったの? そうでないと納得できないほどの執着ぶりでしたね」
「う……すまない。そう思われても仕方ないよな。だが、誓って私は王女殿下に好意は持ち合わせていなかった。多分……殿下もそうだと思う」
「あら、そうなのですか。ただ、わたくしを含め、周囲の者はそのように受け取っていたかと思います」
その指摘にアルベルトは二の句が継げなかった。
エリーゼの言うことは尤もだ。彼女を初め、父親にも散々注意をされてきたし、同僚の騎士にも苦言を呈されていた。男女の仲と疑われては王女殿下のお立場が悪くなる、距離感を考えろ。そう、長年王女に仕えてきた先輩の女性騎士から何度も叱責された。それでも……アルベルトが態度を改めることはなかった。
「あの頃の私は本当に愚かだった……。あれほど君を含めた周囲の人間が忠告してくれたというのに、聞き入れる気さえなかった」
「……そうでしたね」
「王族の護衛に抜擢されたことに浮かれていたんだ。騎士としての自分が認められたような気がして……嬉しかった。……馬鹿だ、本当に。父上から聞かされたのだが、私が選ばれた理由は単に容姿だけだったそうだ」
「容姿……ですか?」
「ああ。王女殿下が、絵物語の姫と騎士に憧れを抱いていて……嫁がれる前のささやかな思い出のためにと、王妃殿下が私をお選びになった。私は、単に思い出作りの為に選ばれたにすぎなかったそうだ」
「まあ……!」
エリーゼの驚きは、副音声で「思ったよりくだらない理由」とでも聞こえてきそうだった。




