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18 見つめる背中はオスの香り

その大きな瞳は、激しい戦闘の余韻や、目の前で起きた凄惨な自害への恐怖に揺れているのではない。


彼女の視線は、床の黒い灰など一瞥もせず、ただ真っ直ぐに、伊佐水という"男"の輪郭を捉えている。


スカジャンの袖から覗く白い肌が、気のせいか、深層の青白い魔素の光よりも赤く上気しているように見える。


彼女の胸元は、呼吸の乱れとは明らかに違うテンポで、ドクドクと激しく波打っている。



「神代主任、大丈夫か?早く戻って残務処理をしないと……自分で歩けるか?」



上から降ってくるのは、いつもと変わらない、少し呆れたような伊佐水の事務的な声。


だけど、その声を聞くだけで、炎の胸の奥はドクドクと、壊れた機械みたいにうるさく脈打っている。



(ちがう……ちがうちがう、何これ。マジで意味分かんない……っ!)



自分の中で暴走している"感情のバグ"を、必死に処理しようとしていた。


でも、普段は圧倒的な直感センスも、今は完全に処理落ち(ジャム)を起こしており、ただの一行の答えも導き出せない。


いつもなら、「だるい」「おじさんキモい」「タイパ悪い」って言って、適当にあしらえていたはずだった。


いつものおじさんは、定時退社と経費精算のことばっかり考えている、頼りなくて弱々しい、ただの"事務屋"のはずだったのに。



(なんなの、さっきの……。あんなの、ずるいじゃん……)



目の前で見た、彼の本当の"背中"。


私の最強の攻撃すら通用しなかったバグだらけの敵を、ただのバインダーとワイヤーだけで、まるで机の上のゴミを片付けるみたいに冷徹に、完璧にねじ伏せてみせた圧倒的な強さ。


筋肉の電気信号すら発しない、あの極限まで無駄を削ぎ落とした冷たい挙動。


そこにいたのは、いつもの冴えない事務屋なんかじゃなく、私の命の手綱を完璧に握り、誰よりも冷酷に、そして誰よりも優しく私を守ってみせた、強烈なまでの"雄"としての伊佐水の姿。



(私より強い男なんて、社長以外にはこの世にいないと思ってたのに。……あんな格好いいところ見せられたら、もう、ただのおじさんだなんて思えないじゃん……っ!)



生まれて初めて突きつけられた"敗北感"に似た、でも、どうしようもなく甘くて熱い衝動。


顔が、耳の裏まで真っ赤に焼けていくのが分かる。


深層の青白い魔素の光なんかよりも、身体の方がずっと発熱している。


混乱の渦に溺れそうで、ただ、掴んだ彼の服の袖をさらにぎゅっと握り締めることしかできない。



「神代主任? ……やはり魔素中毒の初期症状じゃないか?心拍数が危険域に達しているぞ。意識をはっきり持ちなさい。」



そんな私のパニックなんて梅雨知らず、伊佐水はため息混じりに肩に手をかけ、引き剥がそうとしてくる。


どこまでも冷静で、どこまでもビジネスライクな、いつも通りの伊佐水。


その手の体温が洋服越しに伝わってきた瞬間、焔は心臓が跳ね上がって、限界を迎えた。



「……っ、だから、ちがうって言ってるでしょ!!」



弾かれたように顔を跳ね上げ、私は伊佐水の胸を思いっきり突き飛ばす。


驚いたように僅かに目を見開く伊佐水を、涙目で睨みつける。



「もうっ! おじさんのバカ! 設定盛りすぎのチートキャラのくせに!人の気持ち、1ミリも計算できてないじゃん! 結論から言うね、おじさんマジで最悪!!」


「……は? 結論の意味が分かりかねるんだが……あと、俺はおじさんでは――」


「うるさーーい! 帰る! 帰ればいいんでしょ! さっさと定時退社の手続きして、おじさんの奢りで一番高い炭酸飲ませてよ!!」



ブンブンと頭を振って変なモヤモヤを振り落とすように叫ぶと、焔は魔鎌を担ぎ直し、真っ赤な顔のままスタスタと管理室の出口へ向かって歩き出す。


後ろでは、伊佐水が「やれやれ」と呆れたように頭を振っている気配がする。


そのお馴染みの動作にすら、今の焔はどうしようもなく胸をときめかせてしまう。


Z世代の最強シーカー、神代焔。


彼女の人生で最大のイレギュラー(初恋)は、新宿の闇の奥で、もう誰にも止められない速度で加速し始めていた。





新宿ダンジョン最深部での激闘を終え、本社オフィスへと戻るなり、待ってましたとばかりに総務部長がナヨナヨとした足取りで駆け寄ってきた。



「あぁ、伊佐水くぅん! 神代主任も! 無事でよかったよぉ……。新宿のメインターミナルが大変なことになってるって聞いて、僕、もう胃に穴が空きそうでさぁ……」



ハンカチで額の汗をぬぐいながら、大袈裟に胸をなでおろす部長。


いつもならそのナヨナヨした態度に、焔が「部長、愚痴るのタイパ悪いんで結論からどうぞー」と突っ込むところだが……なんの反応もない。


彼女、さっきからずっと様子がおかしいんだよな。


ずっと無言だし、どこか空回りしているような……


なので、ここまであまり触れないようにして、帰ってきたわけだが……。



「部長、報告書はすでに関係各所へ送付済みですから、ご安心ください。」



焔に意識だけ向けつつ、俺がそう報告すると、部長はビクリと背中を跳ね上がらせる。



「あ、それなんだけどねぇ……。さっき社長から直接連絡があってさ。伊佐水くんの速報ログを読んだみたいで、『終わったらすぐに私のところへ来い』って……。うぅ、僕、何か怒られるのかなぁ……」


「いえ、たぶん大丈夫ですよ。部長が引責辞任するようなエラーはないですし……私が直接向かいますね。」



俺っては至って冷静にそう言うと、手元に揃えた報告書一式をバインダーに収め、社長室へ向かう準備をする。


新宿ダンジョンで、実際に何が起きたのか。


社長はそれを、直接俺の口から聞きたいんだろう。



「……ちょっと、おじさん。それ、私も行く。」



歩き出すと、焔が俺の服の裾をそっと、でも拒絶を許さない力強さで掴む。


社長への報告は俺だけでいいんだが……さて、どうしたものか。



「大丈夫か?攻略一課の仕事は終わってるし、無理しなくてもいいんだが……」


「いや……行く……」



どこか動揺に揺れる彼女の瞳。


しかし、その瞳の奥には真っ直ぐに何かを見据える光が見える。


だけどなぁ……さっきからいつもと様子が違うし、オフィスに帰って、診てもらった方がいい気がするけど……



「でもな……神代主任、君は攻略一課のオフィスでメディカルチェックを受けるのが先決だと思うんだが……」


「やだ。私も行く。絶対行く……じゃなきゃ、割に合わない。」



大きな瞳で真っ直ぐに見つめられ、俺は僅かにため息をつく。


そこまで意志が固いなら、仕方がない。



「……分かった。だが、発言は慎むように。」



焔は頷くことなく、歩き出した俺の後に続く。


目指すは社長室。


それは総務課の執務室と同じフロアにある。


だが、社長室に入ろうとしたところで、秘書から声をかける。


彼女は困ったような、しかし全てを察しているようなプロの微笑みを浮かべている。



「伊佐水さん、お疲れ様でした。社長ですが、現在は社長室にはいらっしゃいません。……"例の場所"でお待ちです。」


「……あぁ、屋上ですね。了解しました。」



その言葉だけで、俺は團十郎の意図を完全に理解した。


屋上は……俺とあの人の特別な場所だからな。


連れて行くのが焔なら……まぁ大丈夫だろう。


社長秘書にお礼を告げると、俺はエレベーターホールを目指した。

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