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17 危機一髪に映る背中

「業務中の労災は、総務部として最も避けるべきコストだな。」



俺の言葉と共に、乾いた衝撃音が青白い管理室に響き渡る。


女の放った渾身の双剣。


それを、俺は手にした超高密度魔導合金製のバインダーだけで、完璧に弾き落としていた。


メモ用に持ってきていたバインダーだったが、こんなところで役に立つとはな。


俺は内心で笑う。


このバインダーは、総務部危機管理担当にのみ支給される世界で最も頑丈なオフィス用品だ。


見た目はシックな黒の、どこにでもある一般的なA4サイズのバインダー(クリップボード)。


しかし、その内部構造は完全に軍事・ダンジョン攻略レベルの仕様となっていて、キリュウ・グローバル(株)の開発部が、ダンジョン深層のレア魔鉱石とチタン合金を極限まで圧縮して鍛え上げた特殊金属である"超高密度魔導合金"が使われている。


現役トップシーカーが使う武具や防具と同等以上の硬度を誇り、対物ライフルやレベル5クラスの魔物の爪、さらには空間を削り取るような異質の斬撃すら傷一つなく弾き返す代物だ。


しかも、バインダーの表面には特殊な絶縁コーティングが施されていて、ダンジョン内の濃密な魔素や、敵の放つ電磁バグ、呪詛、汚染物質を一切通さない魔素伝導率"ゼロ"の完全絶縁体。


今回、謎の女が放った"電気信号をハッキング能力"をミリ単位の狂いもなく弾き落とせたのは、このバインダー自体が物理・電子的な"絶対の盾"として機能してくれたおかげなのである。




「……?!」



これまで完璧な戦闘マシーンとして無表情を貫いていた謎の女の顔に、ほんのわずかな……しかし決定的な"驚愕"が浮かんだことを、俺は見逃さない。


おそらくだが、彼女の脳内システムが、目の前で起きた事象の確率ロジックを計算しきれず、完全にエラーを起こしたんだろう。


この女のハッキング能力は、相手の筋肉の電気信号を読み取るものだからな。


筋肉が動く際の"微弱な電気信号"という"事象データ"を読み取り、それをシステム的に解析して先回りする能力。


そう言えば聞こえはいい。


だが、欠点もある。


人間の肉体から発せられる電気信号には、焦り、迷い、疲労といった多くの"無駄ノイズ"が含まれている。


だから、女のシステムはそのノイズ混じりのデータを処理して、"次の動きの確率"を予測することしかできないのだ。


なら、俺がやるべきことはひとつしかない。


自身の挙動における"迷い"や"筋肉の余計な緊張"、"感情のブレ"といったすべての"無駄ノイズ"を、物理現象から完全にデリートしてやればいい。


それによって、自分の筋肉から発せられる電気信号……これから動くという"予備動作の信号"すら、一ミリボルトたりとも発することなく、動くことができるようになるわけだ。



「君の不正なハッキングは、俺のセキュリティには敵わない……。」



こちらを真っ直ぐに見つめる女の瞳。


俺は目を逸らすことなく、流れるような動作で一歩踏み込んだ。






一方で、焔は目の前で起きた事象に目を見開いていた。



「……!」



背後の壁に背を預けたまま、焔は自分の胸の音が、新宿ダンジョンの重低音よりも激しく鳴り響いているのを自覚する。


ドクドクと、狂ったように跳ね上がる鼓動。


目の前で繰り広げられているのは、プロのトップシーカーである自分すら圧倒した敵を、ただの事務屋の男が、書類仕事でもするかのように淡々と、そして完全に支配していく光景。



(なんなの、これ……。自分の筋肉の電気信号を無効化してるとか、そういう次元じゃない。このおじさん……強すぎる……っ)



彼の生い立ちも、その力の本質も、焔は何も知らない。


けれど、自分の窮地を完璧に救い、誰も寄せ付けない圧倒的な強さで敵をねじ伏せるその背中が、どうしようもないほど"男"として、彼女の心を掴んで離さない。


戦いの高揚感でもなく、魔素中毒のそれでもない。


これは、焔が生まれて初めて知る、明確な"恋のエラー(一目惚れ)"だった。





そんな焔のことなど梅雨知らず、俺は女へと肉薄する。


女が体勢を立て直して双剣を構え直すよりも早く、俺は総務部危機管理担当としての持参している特注備品――魔素伝導率ゼロの"耐魔特殊鋼ワイヤー"を、蛇のように射出。


シュルルルッ! と鋭い音が響き、ワイヤーが管理室一帯を埋め尽くす蛇のように踊れば、女の四肢が一切の抵抗を許されずに、完璧な対数螺旋の軌道で縛り上げられる。


そのまま、ドサリと床に崩れ落ちる女。



「処理完了だな。」



俺は女の前に膝をつき、バインダーを開いたまま、冷静な視線を向ける。



「君を拘束する。どこの誰かは知らないが、誰の指示でやったのか、履いてもらおう。」



しかし、女は縛られたまま、ただ無言で俺を見ているだけだった。


その瞳には、恐怖ではなく、任務の失敗を悟った冷たい諦めだけがある。



「口が堅いのは結構だが、我が社の法務部と監査部の尋問は、これほど優しくはないぞ。」



これ以上の現場での尋問は非効率……いったん本社へ戻るべきだな……。


俺はそう判断し、懐から業務用スマホを取り出す。


このまま、彼女を秘密裏に本社へと移送し、事後処理を行うためだ。



「――こちら総務部伊佐水。新宿特区最深部を制圧。これより対象を秘匿搬送します。鉄輪さん、聞こえてるか?社用車の回送とルート確認を要請――」



回収班の鉄輪と連携し、女の搬送手続きを取ろうとした、まさにその時だった。



「……っ!」



ワイヤーに縛られていた女の身体が、不自然にビクンと跳ね上がる。


その口元から、どろりと黒紫色の血が流れ落ちる。



「神代主任、離れろ!!」



俺は瞬時に焔の前に立ち、バインダーを掲げる。


毒……!?


そう考えたのも束の間、拘束されていたはずの女の身体が、再び不自然な硬直とともにビクンと跳ね上がる。


次の瞬間、無機質だった両眼から、ドロりと黒紫色の血が激しく噴き出す。


凄惨な光景の中、女は断末魔の悲鳴すら上げず、ただ内側からボロボロと炭化していき、最後はサラサラとした黒い灰となって床に崩れ落ちた。


あまりに突発的で容赦のない幕引き。



「……おじさん、これ……」


「自害……と見て間違いないな。神代主任、灰には触れないように……」



焔に強く念を押すと、俺は灰の山の前にしゃがみ込む。


突然の激しい吐血、そして眼球からの出血。


これらから考えられるのは、おそらくは毒性の何か……しかし、細胞レベルで体を即時分解する毒なんて存在するのだろうか……。


思考を繰り広げながらも、俺はこの灰に有害なものが含まれていないことを確認する。


とりあえず、この灰はサンプルとしてあそこには届ける必要があるだろうな。


死者を冒涜したくはないが……この件については、やっぱり胸騒ぎが大き過ぎる。


俺は焔に見られぬように、こっそりと取り出した小瓶に灰を詰め込むと、ゆっくりと立ち上がる。



「おそらくだが、彼女は使い捨てとして放たれた"どこか"のエージェントだろう。尋問による情報の漏洩を防ぐため、拘束、あるいは作戦失敗をトリガーにして自動発動する、極めて悪質な自死プログラムが組み込まれていた……そう推測するのが妥当だな。」



冷静に分析内容を告げて、焔の気を逸らす……つもりだったが、彼女の反応は思いのほか薄い。


チラリと視線を向けたが、焔は呆けたように固まっている。


もう少し食いついてきてもいいはずだが……何かあったのか?


……いや、それよりもまずは鉄輪さんに連絡を入れないとな。


業務用スマホには数件の着信が残っており、鉄輪の名前が連なっている。


途中で通話を切ってしまったので、仕方ないか。


スマホを耳を当てると、すぐに繋がった。



『伊佐水……!?どうしたんだ!突然スマホ切りやがって!』


「……鉄輪さん、申し訳ない。要請を取り消します。対象が自動自害プログラムを起動したため、搬送すべき対象は残されていません。」


『なんだそりゃ!』と声を上げる鉄輪に、帰ったら説明をする旨を伝え、宥めながら一度通話を切る。


再び床に目を落とせば、骨格の形すら残さず、サラサラとした不気味な黒い灰が広がっている。


それを見たら、自然と眉を顰めてしまった。



「……神代主任。こうなってしまうと、ここでやることはほとんどない。新宿のメインコンソールを復旧させ、早急に帰社し……」



そう言いかけて、背後に佇む部下の姿に視線を戻す。


だが、返事はない。



「……神代主任?」



いつもなら「だるい」とか「タイパ悪い」と文句を並べるはずの攻略一課のエース。


しかし、彼女は壁に背を預けたまま、呆然と俺を見つめていた。

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