14 新宿ダンジョン特区
キリュウ・グローバルが管理するダンジョン特区の中でも、「新宿ダンジョン特区」は品川や渋谷とは一線を画す、最重要かつ最も危険な構造を持っている。
その最大の特徴は、地上の広大な旧新宿駅周辺の地下街(サブナードや各線コンコース)と、ダンジョン化によって拡張された構造が、物理的に融合している点だろう。
かつて、数百万人の通勤客が行き交った"メトロプロムナード"や"サブナード"の遺構と、そのコンクリートの壁を破り、ダンジョンの禍々しい黒岩や発光植物が侵食している違和感。
天井からは引きちぎれた光ファイバーケーブルと蔦が絡み合って垂れ下がり、錆びついた案内標識は"出口"ではなく、"地下第4層:深層"を指し示している。
まさに、地上の旧新宿駅が持つ混沌をそのまま地下に引きずり込み、肥大化させた悪夢のような空間だ。
さらに、この特区特有の"空間の歪み(バグ)"が、探索者の距離感を狂わせる。
さっきまでJRの自動改札口だった場所を抜けると、次の瞬間には、見渡す限りの広大な地下渓谷に出たり、数歩進めば、今度は無数のコインロッカーが壁一面を埋め尽くす閉塞感のある十字路に突き当たる。
人々の欲望、焦燥、ストレスが澱のように溜まったこの場所は、魔素の変異速度も他の特区の比ではなく、闇の奥からは常に、都市の騒音を模したような不気味な魔物の鳴き声が響いているのである。
(はぁ……まじでダルいわ……)
焔は内心でのぼやきが止まらない。
最も面倒で嫌いな新宿ダンジョンに来なければならなかったこともそうだが、それよりも何よりも、目の前を走る総務部の職員に対して、ある感情が先行しているからだ。
(そもそもだけど……おかしくない? このおじさん、なんで私の速度に平気でついてきてるわけ?)
新宿の歪んだ地下迷宮を、息一つ乱さずに駆け抜ける総務部の男。
その背中を見て、これまでの彼に対する評価を根本から書き換えざるを得ない"奇妙な疑念"が、焔の胸には生じていた。
昨日の夜、この男に準備しておけと言われたのは、この件は自分に任せると言うことだと思っていた。
当然、ここには自分1人で来るものと思っていたのに、なぜかこの男が一緒にいる。
自分の前を先行し、ものすごいスピードで迷宮を駆け抜けていくこの男が……。
しかも、それだけではない。
(……なんでこの人、地図見ないわけ?)
焔は自身の左腕に装着した端末をチラリと見た。
道は……確かに合っている。
空間のバグによって、刻々と変わる新宿ダンジョンにおいて、自身の位置の把握は必須スキルだ。
なぜなら、このダンジョンで道に迷えば、それは死を意味するからだ。
なのに、この男は地図を見る素振りすら見せず、まるで"最初からそこに通路ができるのを知っていた"かのように、迷いなく最短ルートを選び取っていく。
焔は、それが信じられずにいた。
数字と書類にしか興味がない、コンプライアンスの塊のようなつまらない大人と思っていた。
戦えないからこそデスクに噛み付き、現場の命がけの戦いを"6億円の損失"などと冷酷に査定する、典型的な非戦闘員(事務屋)だと思っていた。
しかし、この新宿ダンジョンに入ってからの彼の動きは、その認識を完全に裏切るものだった。
さらに言わせてもらえば、この男の魔素耐性……これが1番理解できない。
本来、耐性のない一般人がダンジョン内の濃密な魔素を浴びると、細胞組織が物理的に拒絶反応を起こしてしまい、眩暈や吐き気、身体機能の停止などが起きる。
もちろん、最悪の場合は精神が崩壊して廃人になるか、肉体が炭化して死亡することだってある。
探索士が何の問題もなくダンジョンに潜れるのは、遺伝子的あるいは適性的に"体内に魔素のデトックス・変換システム"を生まれ持っており、呼吸や皮膚から魔素を取り込むことで、自身の体内で"魔力"や"身体強化のエネルギー"へと変換できるからだ。
なのに、目の前の事務屋は平然と走り続けている。
呼吸のテンポすら変えずに……だ。
焔の最強ゆえの直感センサーが、彼の背中から漂う徹底的に隠蔽された"異質な気配"を捉え始めていた。
それは、攻略一課の他の探索士たちが放つような、分かりやすい"強者のオーラ"とは全く異なるもの。
筋力に優れているわけでも、すごい魔力を出してるわけでもない。
なのに、底が感じられない究極の違和感。
(今……物陰から奇襲してきたレベル4の魔物の位置、私より一瞬早く気づいて避けたよね?)
伊佐水の行動……そのひとつひとつを見せつけられる度に、焔の中で"めんどくさいおじさん"というレッテルが剥がされ、【隠しボス】とか【チート運営】といった全く別の危険なタグが貼り付けられていく。
(前に千鶴子に無理やり観せられた『陰の実なんとかかんとか』……だっけ?確かにあれは面白かったけどさ……隠れて実力を隠すキャラ設定とか、現実にいたらマジで厨二病っぽくてダルいんだけど。)
頭ではそう思っている焔だが、伊佐水の細かい仕草を目の当たりにして、疑念はゆっくりと確信へと変わっていく。
目の前で走る総務部の男は……おそらくシーカー(探索士)だ。
現役なのか、引退したのかは知らないが、じゃなきゃ魔素への耐性のことも、身体能力のことも説明がつかない。
そして、たぶん彼は……自分よりも強い。
(会社のデータベースには、そんな情報どこにもないのに……)
人事データベースで調べた伊佐水の社員情報を思い出す。
画面に並んでいたのは、戦いとは無縁の"事務屋"としての完璧な数字と資格の羅列だけ。
過去のダンジョン攻略実績はおろか、魔素適性値の欄すら空白。
どこをどうひっくり返しても、探索士だったような形跡は1ミリもなかったはず。
まるで、社内の七不思議のひとつにでも出会したような感覚。
しかし、焔の心には畏怖ではなく、「だったらこのステージ、余裕でクリアできるじゃん」という、Z世代らしい不敵な信頼とワクワク感が湧き上がっていた。
伊佐水は、ただの事務職ではない。
その事実を、焔は言葉ではなく、シーカーとしての本能で完璧に理解しつつある。
(あはっ……何これ。マジで『隠しボス』が味方にいるじゃん。タイパ悪いどころか、最高にチートなパーティー組めてる裏ステージじゃん、これ!)
胸の奥から湧き上がってきたのは、だるい業務を押し付けられた時の不快感ではなく、強敵と対峙する時のようなひりつくようなワクワク感。
いつもは、自分の定時退社を阻む敵でしかなかった伊佐水が、今は"背中を預けるにこれ以上ない、絶対的な盾"に見えている。
彼が隣にいる限り、自分はどれほど暴れても、世界のどんなバグ(敵)が相手でも、絶対に負けない。
そんな狂信に近い信頼感が、焔のスピードをさらに加速させる。
「神代主任……まもなく、メインターミナルパイプの中央管理室に着きますよ。準備してくだい。」
振り向くことなく、冷静に告げる伊佐水。
それを聞いた瞬間、焔の胸の奥が魔素中毒とは違う理由でドクンと熱く脈打った。
(……な、にこれ。……心拍数がバグってる……?)
身体強化のエネルギーが暴走したわけではない。
ただ、いつもは「おじさん」と呼び、ウザがっていたその存在が、急にどうしようもなく、"一人の男"として自分の視界を支配してくる感覚。
スマートで、冷徹で、でも、この状況下においては誰よりも頼りになる唯一無二の背中。
「……っ、分かってるよおじさん。……ちがう、伊佐水さん。」
いつもなら「おじさん」とからかうように呼ぶはずの言葉が、なぜか上手く口から出ない。
焔は、それを誤魔化すようにフイッと顔を背けた。
耳たぶが、魔素の光よりも赤く熱くなっているのを自覚して、自分で自分が信じられなくなる。
もちろん、その様子に伊佐水が気づくとこはなかった。




