『嘘が紡ぐ、琥珀色の奇跡』
『嘘が紡ぐ、琥珀色の奇跡』
どんよりとした灰色の雲が、空を低く覆い尽くしていた。今にも泣き出しそうな梅雨の終わりの空気は、肌にまとわりつくように湿っぽく、部屋の片隅に置かれた古い扇風機が、首を振りながら生ぬるい風を送り出している。
大学生の湊は、お気に入りの、少し着古したマスタード色のサマーセーターを着て、ソファーに深く身体を沈めていた。ざっくりと編まれた麻混の生地は、こんなジメジメした日でも肌触りが心地よい。しかし、彼の心は、その温かみのある色とは裏腹に、凍りついたように冷え切っていた。
「……また、動かないな」
湊は、自分の右手のひらをじっと見つめ、指先を曲げようと試みた。しかし、脳からの命令は途中でせき止められたかのように、指一本ピクリとも動かない。
数ヶ月前、大きな事故に遭って以来、彼の右手は原因不明の麻痺に襲われていた。病院を何軒回っても、精密検査を何度受けても、医師たちはみな首を横に振るばかりだった。「身体的な異常は見当たりません。心理的なものが原因でしょう」と。
動かない右手を、左手で虚しくさする。皮ふの感覚だけは確かにあるのに、自分の身体ではないような、冷たいガラスの塊を触っているかのような奇妙な感覚だった。胸の奥から、黒い泥のような絶望がじわじわと湧き上がってくる。
そんな湊の部屋のチャイムが、軽やかな音を立てて鳴った。
「はーい、入るよ」
鍵の開いていたドアを押し開けて入ってきたのは、幼馴染の紬だった。彼女は、雨粒を弾く鮮やかなレモンイエローのレインコートを脱ぎ、白いハンカチで濡れた黒髪を拭いながら、部屋に明るい陽だまりのような空気を連れてきた。彼女の動きに合わせて、ほんのりと柑橘系の爽やかな香水が香る。
「ほら、湊。今日はね、元気が出るようにって、特製のお弁当を作ってきたんだから」
紬は、手提げ袋から大きめの木製のお弁当箱を取り出し、テーブルの上に広げた。
「うわあ、すごいな……」
湊の口から、自然と感嘆の声が漏れた。
蓋を開けた瞬間、香ばしい胡麻の香りと、甘辛く煮詰められた醤油の匂いが一気に部屋中に広がって、湊の鼻腔をくすぐった。お弁当箱の中には、ふっくらと焼き上げられた鮭の西京焼き、出汁がじゅわっと染み出している黄金色の卵焼き、そして艶やかなブロッコリーとミニトマトが、美しく彩りを添えている。
「冷めないうちに食べよう。はい、お箸」
紬は、湊の左手にそっとお箸を握らせた。
湊は不器用な左手でお箸を操り、まずは卵焼きを口に運んだ。
「……ん、美味しい。出汁がすごく利いてる」
「でしょ? 湊の好きな甘めの味付けにしたんだから」
紬は嬉しそうに目を細め、自分もお弁当を食べ始めた。ふっくらとしたお米の甘みと、鮭の程よい塩気が絶妙に絡み合い、湊の冷え切っていた胃袋が、じんわりと温められていく。食事の温かさは、そのまま彼の強張った心を少しずつ解きほぐしていくようだった。
食事を終え、温かい麦茶を飲みながら一息ついた頃、紬がカバンの中から、小さな琥珀色のガラス瓶を取り出した。中には、透明な、ごく小さな丸い錠剤がいくつか入っている。
「ねえ、湊。これ、実は知り合いの凄腕のドクターから、特別に譲ってもらった海外の新薬なの」
紬は、真剣な眼差しでその瓶を湊の前に差し出した。
「新薬? 俺の手に効くのか?」
湊は、思わず身を乗り出した。
「うん。神経の伝達を劇的に改善するお薬なんだって。まだ日本では一般に流通していないんだけど、これを飲めば、絶対にその麻痺が治るって、その先生が太鼓判を押してた」
「本当か……?」
湊の心臓が、ドクンと大きく波打った。喉の奥が急にカラカラに渇き、胸の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響き始める。これまでどんな治療も効果がなかった。けれど、紬の嘘偽りのない、確信に満ちた強い瞳を見ていると、その言葉が救い主の福音のように思えてならなかった。
「嘘じゃないよ。私、湊の手が治るなら何でもする。一粒、飲んでみて」
紬は瓶の蓋を開け、手のひらに小さな一粒を乗せた。それは、まるで小さな真珠のように、窓から差し込むかすかな光を浴びてキラキラと輝いている。
湊は、左手でその一粒をつまみ、口に含んだ。
舌の上に触れた薬は、驚くほど何も味がしなかった。苦味も酸味もなく、ただ、ほんのりとほのかな甘みがあるような気がした。麦茶でそれを一気に喉の奥へと流し込む。
「……どう?」
紬が、祈るように両手を胸の前で組み、湊の顔をのぞき込んできた。
「うーん、すぐには変わらな……いや」
その時、湊の身体の中で、奇妙な変化が起き始めた。
胃のあたりから、カッと燃えるような熱い塊が湧き上がり、それが血管を伝って、右肩、そして動かない右腕へと猛烈な勢いで流れ込んでいく感覚があった。まるで、長い間せき止められていた川の水が、一気に決壊して流れ出したかのような、圧倒的な衝動。
「あ、熱い……」
湊の額から、大粒の汗がぽろぽろと流れ落ち、マスタード色のセーターに小さなシミを作っていく。
「湊!?」
「腕が、ジンジんする。神経の奥が、すごく痺れるんだ」
それは、痛みに似た、しかし酷く心地よい刺激だった。死んでいた細胞が、一斉に産声を上げて目覚めていくような感覚。湊は息を荒くしながら、自分の右手に意識を集中させた。
動け。動いてくれ。
心の中で強く念じたその瞬間、ピクリ、と右の薬指が小刻みに震えた。
「あ、動いた……!」
紬が歓声を上げた。
湊は信じられない思いで、さらに力を込めた。すると、今度は人差し指が、そして親指が動き、ゆっくりと、しかし確実に、右手のひらが握りこぶしを作っていく。
「動く……動くぞ、紬!」
湊は、自分の右手を見つめながら、ボロボロと涙を流した。手のひらを握りしめると、爪が皮膚に食い込む鈍い痛みが伝わってくる。その痛みが、今起きていることが紛れもない現実だと教えてくれた。胸の支えが取れ、視界が涙でぐにゃりと歪む。
しかし、喜びの絶頂にいる湊の目の前で、なぜか紬は、今にも泣き出しそうな、複雑な表情で行く手を遮るようにうつむいていた。
「紬? どうしたんだよ。お薬、本当に効いたんだ。すごいよ、これ!」
湊が興奮気味に声をかけると、紬は小さく首を振った。その目から、一筋の涙が頬を伝って落ちる。
「……ごめんね、湊。本当に、ごめんなさい」
「え? 何で謝るんだ?」
「そのお薬……新薬なんかじゃないの。ただの、市販のブドウ糖のトローチなの。私が、綺麗な瓶に詰め替えただけ」
紬の声は震えていた。
「……え?」
湊は呆然と立ち尽くした。自分の右手を見る。指は、今も彼の意志に従って、滑らかに動いている。
「病院の先生がね、湊の麻痺は『治らない』と思い込んでいる心のブレーキが原因だって言ってたの。だから……絶対に治るっていう強いキッカケがあれば、奇跡が起きるかもしれないって。私、湊に嘘をついたの。騙して、本当にごめんなさい……」
紬は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣きじゃくった。
部屋の中に、再び扇風機の回る音だけが寂しく響いた。
ブドウ糖の錠剤。何の成分も入っていない、ただの甘い塊。それが、自分の腕を動かしたのだ。
これが、いわゆる『プラシーボ効果』というものなのだろう。脳が、心が、偽りの薬を本物だと信じ込んだ結果、身体のブレーキを無理やり解除してしまったのだ。
湊は、じっと自分の右手を見つめた。
騙されていた、という怒りは全く湧いてこなかった。むしろ、胸の奥を満たしたのは、言葉にできないほどの深い感謝と、温かい愛おしさだった。
紬は、自分のために、嫌われ者になるかもしれないリスクを背負って、あんなに必死な嘘をついてくれたのだ。お弁当を作り、わざわざ雨の中を、自分を救うためだけに。
「紬」
湊はゆっくりと歩み寄り、今度はしっかりと動くようになった『右手』を伸ばした。そして、泣いている彼女の、細い肩をそっと抱きしめた。
マスタード色のセーター越しに、彼女の小さな体温と、激しい鼓動が伝わってくる。
「怒って、ないの……?」
紬が、涙に濡れた目で湊を見上げた。
「怒るわけないだろ。君の嘘が、俺の腕を治してくれたんだ。これは、トローチの力じゃない。紬、君が俺にくれた奇跡だよ」
湊は、優しく微笑みながら、彼女の涙を親指でそっと拭った。
窓の外を見ると、いつの間にか厚い雲の切れ間から、柔らかな夕暮れの光が差し込み始めていた。雨上がりのアスファルトの匂いが、涼しい風に乗って部屋の中に流れ込んでくる。
湊は、もう一度力強く右手を握りしめた。
人間の心は、時に信じられないほどの騙されやすさを持つ。けれど、それが大切な人を救いたいと願う優しい嘘であるならば、世界を塗り替えるほどの、本物の奇跡を起こすことができるのだ。
琥珀色のガラス瓶に反射する夕日の光を浴びながら、湊はしっかりと、紬の手を握り返していた。




