お守りの味 プラシーボ効果
お守りの味
六月の終わりだった。
朝から空はどんより曇り、湿った風が古いアパートの窓の隙間から入り込んでいた。
栞は小さくため息をついた。
机の上には飲みかけの麦茶。
その隣には原稿用紙代わりのノートと使い込まれたノートパソコン。
画面には書きかけの小説が開かれている。
しかしカーソルだけが点滅していた。
何も書けない。
胸の奥が重かった。
「またか……」
栞は額を押さえた。
ここ数日、頭痛が続いている。
病院では異常なしと言われた。
それでも痛いものは痛い。
肩も重い。
身体もだるい。
気持ちまで沈んでしまう。
窓の外では近所の小学生たちが元気に登校していた。
黄色い帽子。
大きなランドセル。
笑い声。
その明るさが少しまぶしかった。
午前十時。
訪問看護師の岩崎がやって来た。
いつものように優しい笑顔だった。
紺色のポロシャツにベージュのパンツ。
雨の匂いをまとっている。
「おはようございます」
「おはようございます」
「顔色悪いですね」
「頭痛が……」
岩崎は頷いた。
「そういう日もあります」
「何にもできなくて」
「本当に何もできませんでした?」
栞は少し考えた。
「朝ご飯は食べました」
「何を?」
「トーストとゆで卵とバナナ」
「十分じゃないですか」
岩崎は笑った。
栞も少しだけ笑う。
「そうかな」
「そうですよ」
岩崎は鞄を開いた。
中から小さな包みを取り出す。
「これどうぞ」
「何ですか?」
「秘密です」
「怪しい」
二人で笑った。
包みの中には飴が入っていた。
透明な袋に一粒だけ。
「これを食べると元気になります」
「ほんとですか?」
「私の特製です」
「嘘くさい」
「そう思うなら効きません」
岩崎は真顔で言った。
栞は吹き出した。
そして飴を口に入れた。
レモン味だった。
甘酸っぱい香りが広がる。
「どうです?」
「まだ分かりません」
「十分後です」
「十分後?」
「そう」
岩崎は腕時計を見た。
栞は呆れながらも付き合った。
十分後。
不思議なことに少し気分が軽くなっていた。
頭痛が完全に消えたわけではない。
だがさっきほど気にならない。
「あれ?」
「どうしました?」
「少し楽かも」
岩崎は満足そうに頷いた。
「効きましたね」
「本当に?」
「本当に」
栞は驚いた。
レモン飴がそんなに効くのだろうか。
岩崎は帰り際に言った。
「人間って案外単純なんですよ」
午後。
栞は久しぶりに近所の商店街へ出かけた。
薄い水色のブラウスに白いカーディガン。
歩くたびに紫陽花の匂いが漂う。
八百屋では大きなトマトが並んでいた。
魚屋からは焼き魚の香ばしい匂い。
パン屋からは焼きたての香り。
いつもと同じ景色。
なのに今日は少しだけ色鮮やかに見えた。
夕方。
夕食はトマトと卵の炒め物。
味噌汁。
炊きたてのご飯。
食卓から立ち上る湯気を見ながら栞は思った。
食欲も戻っている。
夜。
再び岩崎から電話があった。
「どうですか?」
「元気になりました」
「よかった」
「ところであの飴」
「はい」
「本当に特製なんですか?」
電話の向こうで笑い声がした。
「実はスーパーで百円でした」
「えっ」
「ただのレモン飴です」
栞は思わず固まった。
「え?」
「特別な成分は何も入ってません」
「じゃあ何で」
「プラシーボ効果ですね」
「プラシーボ?」
「効くと思うと少し楽になることがあるんです」
栞はしばらく黙った。
それから笑った。
「騙したんですね」
「騙してません」
「騙してる」
「でも元気になったでしょう?」
それを言われると反論できない。
電話を切ったあと、栞は窓を開けた。
夜風が涼しい。
遠くで電車の音が聞こえる。
住宅街の灯りが静かに瞬いていた。
ふと祖母のことを思い出した。
子どもの頃。
転んで膝を擦りむくと祖母は必ず言った。
「魔法をかけといたから大丈夫」
そう言って傷口を撫でてくれた。
不思議なことに、そのあと本当に痛みが和らいだ気がした。
あれも同じだったのだろうか。
薬ではない。
魔法でもない。
けれど人の言葉には力がある。
信じる気持ちには力がある。
栞は机に向かった。
ノートパソコンを開く。
白い画面。
点滅するカーソル。
朝は何も書けなかった。
けれど今は違う。
少しだけ書けそうな気がする。
「効くと思えば効くか」
小さく呟く。
そしてキーボードに指を置いた。
カタカタと軽い音が部屋に響く。
一行。
二行。
三行。
物語が動き始める。
夜風がカーテンを揺らした。
レモン飴の香りはもう残っていない。
それでも胸の奥には温かな何かが残っていた。
人は薬だけで生きているわけではない。
誰かの言葉。
誰かの笑顔。
大丈夫と言ってくれる声。
そんな小さなものに支えられて生きている。
栞は画面に増えていく文字を見つめながら微笑んだ。
「明日もきっと大丈夫」
根拠なんてない。
ただそう思えた。
そしてその気持ちこそが、人生でいちばん優しいプラシーボなのかもしれなかった。




