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ミュラー・リヤー錯視 

ミュラー・リヤー錯視 


同じ長さなのに


 六月の雨上がりだった。


 かおるこは朝のラジオ体操から帰り、少し湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。道路脇の紫陽花は雨粒をまとい、青や紫の花びらを重たそうに揺らしている。


 白いブラウスに紺色のカーディガンを羽織ったかおるこは、小さなアパートの玄関を開けた。


「ただいま」


 もちろん返事はない。


 一人暮らしだから当たり前だ。


 それでも誰かに声をかける癖が抜けない。


 台所で麦茶をコップに注ぐ。氷がからん、と鳴った。


 窓の外では雀が騒いでいる。


 パソコンの前に座ったかおるこは、今日の小説の題材を探していた。


「何か面白いものないかなあ」


 検索していると、ある言葉が目に入った。


『ミュラー・リヤー錯視』


「なんだろう、それ」


 聞いたこともない名前だった。


 画面を開く。


 すると二本の線が表示された。


 一本は矢印が外向き。


 もう一本は矢印が内向き。


 見た瞬間、かおるこは声を上げた。


「うわっ、長さ違う!」


 だが説明にはこう書かれていた。


『実際は同じ長さです』


「ええっ!?」


 かおるこは思わず顔を近づけた。


 何度見ても違う。


 どう見ても違う。


 定規を当ててみた。


「あっ……本当だ」


 同じだった。


 まるで魔法みたいだった。


 そこへ訪問看護師の岩崎がやってきた。


「こんにちはー」


「岩崎さん、見てください!」


「どうしたんです?」


「これ!」


 かおるこはパソコン画面を指差した。


 岩崎はしばらく見つめた。


「長さ違いますね」


「ですよね!」


「でも同じなんですよね」


「そうなんです!」


 二人は顔を見合わせた。


 そして同時に笑った。


「人間の目って不思議ですねえ」


 岩崎は椅子に腰かけながら言った。


「でも、こういうことって人間関係にもありますよね」


「え?」


「本当は同じなのに、違って見えるとか」


 かおるこは少し考えた。


 窓から差し込む光が机を照らしている。


 湯を注いだばかりのほうじ茶から香ばしい匂いが立ち上った。


「ありますね」


「ありますよね」


「たぶんいっぱい」


 岩崎は笑った。


「例えば、怖そうな人」


「ああ」


「実際は優しいのに怖く見える」


「ありますあります」


「逆もあります」


「優しそうなのに意地悪」


「そうです」


 二人はまた笑った。


 かおるこはふと昔を思い出した。


 若い頃。


 会衆にいた厳しそうな長老。


 いつも真面目で近寄りがたかった。


 怒られそうで怖かった。


 ところが父親が入院した時、その人は毎日のように見舞いに来てくれた。


 帰り際にそっと果物を置いていった。


 その時初めて知った。


 見えているものと本当の姿は違うことがある。


「錯視って目だけじゃないのかも」


 かおるこが呟いた。


 岩崎は頷く。


「心にもありますね」


 その言葉が胸に残った。


 午後。


 買い物へ出た。


 スーパーの入口から冷たい空気が流れてくる。


 かおるこは特売の鯵を買った。


 豆腐も買った。


 夕飯は鯵の塩焼きと味噌汁にしよう。


 レジに並んでいると、前に高齢の女性がいた。


 店員が少し不機嫌そうに対応している。


 女性は何度も財布を開け閉めしていた。


 後ろの客が舌打ちする。


「遅いな」


 小さな声だった。


 だが聞こえた。


 かおるこは女性の背中を見た。


 丸まった肩。


 震える手。


 不安そうな目。


 ふと考える。


 みんなは今、この人をどう見ているのだろう。


 迷惑なおばあさん。


 遅い人。


 手間をかける人。


 そんなふうに見えているかもしれない。


 でも本当は。


 足が痛いのかもしれない。


 病気なのかもしれない。


 認知症の始まりなのかもしれない。


 夫を亡くしたばかりかもしれない。


 何も分からない。


 それなのに人は簡単に判断してしまう。


 まるでミュラー・リヤー錯視みたいだ。


 見えているものだけで。


 女性はようやく会計を終えた。


 振り返った時、かおること目が合った。


 女性は申し訳なさそうに頭を下げた。


「ごめんなさいね」


「大丈夫ですよ」


 かおるこは微笑んだ。


「ゆっくりでいいんです」


 女性の顔が少しだけほころんだ。


 夕方。


 窓を開けると涼しい風が入ってきた。


 遠くで子どもたちの声がする。


 味噌汁の湯気。


 焼いた鯵の香り。


 炊きたてのご飯。


 静かな食卓だった。


 テレビもつけない。


 ただ虫の声だけが聞こえる。


 かおるこは昼間見た錯視の画像をもう一度開いた。


 やはり違って見える。


 何度確認しても違って見える。


 でも実際は同じ。


「面白いなあ」


 そう呟いてから、ふと思った。


 自分自身もそうなのかもしれない。


 昔から失敗ばかりだった。


 忘れ物。


 勘違い。


 人間関係。


 何度も傷ついた。


 何度も笑われた。


 だから自分は人より劣っていると思っていた。


 でも本当にそうだろうか。


 もしかしたら。


 見え方が違うだけかもしれない。


 文字を読むのは苦手だ。


 けれど物語を思い浮かべることは好きだった。


 人の気持ちを想像することも好きだった。


 誰かの話を聞くのも好きだった。


 苦手なものばかり見て、自分を測っていたのではないか。


 窓の外で風が木々を揺らした。


 葉がさわさわと鳴る。


 薄紫の夕空に、一番星が光り始める。


 かおるこはゆっくり微笑んだ。


「見えているものが全部じゃないんだね」


 誰に言うでもなく呟く。


 その言葉は静かな部屋に溶けていった。


 同じ長さなのに違って見える線。


 同じ人なのに違って見える心。


 同じ人生なのに違って見える価値。


 人はきっと、たくさんの錯視の中で生きている。


 だからこそ。


 少しだけ立ち止まって見直してみる。


 定規を当てるように。


 確かめるように。


 目だけではなく心でも。


 そうすれば、見えなかったものが見えてくるのかもしれない。


 夕焼けがゆっくりと夜へ変わっていった。



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