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ミュラー・リヤー錯視の檻

ミュラー・リヤー錯視の檻


 じっとりとした湿気が、まとわりつくような夜だった。部屋の隅に置かれた古いラジオから、かすかに雑音が混じったジャズが流れている。雨の匂いが、開け放した窓から部屋の奥へと忍び込み、カビ臭い畳の匂いと混ざり合って鼻腔を突いた。


「ねえ、本当に同じ長さに見える?」

 

 美咲は、座卓の上に広げた白い画用紙を指差しながら、掠れた声で言った。彼女の指先は、恐怖からか、それとも冷え込みのせいか、わずかに震えている。


 俺は美咲の隣に腰直し、その画用紙を覗き込んだ。そこには、黒いインクで二本の線分が引かれていた。一本は両端に外側を向いた矢印がついており、もう一本は内側を向いた矢印がついている。心理学の教科書で誰もが一度は目にする『ミュラー・リヤー錯視』の図形だ。


「ああ、どう見ても上の、矢印が内側を向いている方が長く見えるよ。でも、実際は同じ長さなんだろ? それが人間の目の錯覚、いや、脳の勘違いってやつだからな」

 

 俺はなるべく冷静を装って、努めて明るい声を出した。胸の奥に広がる、得体の知れない不安を押し殺すための、せめてもの抵抗だった。


「違うの。そうじゃないのよ、健一」

 

 美咲は首を激しく横に振った。彼女の大きな瞳には、部屋の裸電球の光が歪んで映り、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。彼女の手のひらは冷たく、俺の手を握りしめる力が異常に強い。


「何が違うんだ? ただの目の錯覚じゃないか。スマートフォンでも持っていれば、定規のアプリか何かで測って見せられるんだけど、あいにく俺も君も、そんな便利な機械は持っていないしな」

 

 俺は苦笑交じりに言った。文字を読むのが苦手な俺たちにとって、複雑な画面操作を要求されるスマートフォンは、縁のない代物だった。だからこそ、自分の目で見える世界だけが、俺たちのすべての真実だったのだ。


「私にはね、この線が、生き物みたいに伸び縮みしているように見えるの。最初は同じに見えたはずなのに、じっと見つめていると、上の線がぐうっと右側に伸びていくのよ。まるで見えない何かに引っ張られているみたいに」

 

 美咲の声は、恐怖で完全に震えていた。彼女の肌からは、冷や汗の酸っぱい匂いが漂ってくる。窓の外で、遠くの雷鳴がゴロゴロと地響きを立てた。その振動が、足の裏から心臓へと直接伝わってくるようだった。


「気のせいだよ。疲れているんだ。最近、夜もあんまり眠れていないんだろ?」

 

 俺は彼女の肩を抱き寄せた。美咲の身体は、凍えるように冷たかった。


「健一、私を騙そうとしていない? 世界が、少しずつ形を変えているの。この部屋の壁も、天井も、私たちが気付かないくらいゆっくりと、歪んでいっている気がするの。あの矢印みたいに、外側に広がったり、内側に縮んだりしながら、私たちを閉じ込めようとしている」

 

 彼女の言葉が、鋭い針のように俺の耳の奥を刺した。暗い部屋の隅に目をやると、確かに、いつもより壁が近くに迫っているような、奇妙な圧迫感を覚える。気のせいだ、と自分に言い聞かせるが、一度芽生えた疑惑は、心の闇で急速に膨らんでいく。


「そんなわけないだろ。壁は壁だ。コンクリートと木でできている。動くはずがない」

 

 俺は自分を納得させるように、わざと大きな声で言った。しかし、自分の喉の奥がカラカラに乾いているのが分かった。唾を飲み込むと、ゴクリと重い音が静かな部屋に響いた。


「じゃあ、確かめてみて。この線の長さを、あなたの手で」

 

 美咲は画用紙を俺の目の前に突きつけた。


 俺はためらいながらも、人差し指と親指を広げ、上の線分の長さに合わせた。そのまま指の幅を固定したつもりで、下の線分へと手を移動させる。


「ほら、やっぱり同じ……」

 

 言いかけて、俺は言葉を失った。


 指の幅が、下の線分を大きくはみ出していた。いや、それだけではない。俺の指の間で、下の線分がみるみるうちに縮んでいくのが見えた。まるで、熱を加えられたプラスチックのように、くしゃりと内側へ折れ曲がっていくような感覚。視覚だけでなく、指先の皮膚が、空間が歪む不気味な感触を捉えていた。


「な、なんだこれは……」

 

 俺は弾かれたように手を引いた。心臓が早鐘を打ち、ドクドクと耳元で血流の音がうるさく鳴り響く。背中を冷たい汗が伝い落ちるのが分かった。


「嘘じゃないでしょ? 健一にも見えたんでしょう?」

 

 美咲は俺の顔を覗き込んだ。彼女の顔は恐怖に歪んでいたが、同時に「自分だけがおかしいわけではない」という、歪んだ安堵の表情も浮かべていた。


「ああ、見えた。線が、動いていた。いや、空間そのものが縮んだのか?」

 

 俺は自分の目を疑いながらも、認めざるを得なかった。目の前にある画用紙の図形は、もはや単なる錯視のインクの跡ではなかった。それは、俺たちの住む世界の安定性を脅かす、不気味な亀裂のようだった。


「私たちはね、見たいように世界を見ているんじゃないの。誰かによって、見せられた通りに世界を誤認させられているのよ」

 

 美咲は座卓にしがみつくようにして、ブツブツと呟き始めた。


「美咲、落ち着け。一回、外の空気を吸おう。雨は降っているけれど、少し歩けば気分も変わる」

 

 俺は彼女を立ち上がらせようとした。しかし、立ち上がった瞬間、激しい目まいに襲われた。


 部屋の景色が、おかしい。


 入り口のドアへと続く廊下が、異常に長く伸びているように見える。まるで、あの内側を向いた矢印の線のように、果てしなく遠くへ引き伸ばされているのだ。逆に、背後の窓は、すぐ目の前にあるかのように迫って見えた。一歩踏み出そうとしたが、床の距離感が掴めず、危うくよろめきそうになる。


「健一、足元を見て!」

 

 美咲が悲鳴を上げた。


 畳の目の線が、直線ではなく、微妙に湾曲し始めている。部屋全体の家具の配置が、直角を失い、奇妙な鋭角と鈍角で構成されているように見えた。まるで、俺たちの部屋そのものが、巨大なミュラー・リヤーの図形の中に組み込まれてしまったかのように。


「くそっ、どうなっているんだ!」

 

 俺は美咲の手を強く引き、無理やり廊下へと踏み出した。


 廊下の壁に手が触れる。冷たくてザラザラした感触。しかし、その壁もまた、俺の進行方向に合わせて生き物のようにうねっている気がした。進んでも進んでも、ドアが近づかない。いや、ドアがどんどん小さくなっていくのだ。


「健一、後ろ! 後ろが縮んできている!」

 

 美咲が振り返りながら叫んだ。


 振り返ると、さっきまでいた部屋の入り口が、まるで針の穴のように小さく萎縮していた。空間が背後から俺たちを押し潰そうと、猛烈な勢いで収縮している。迫り来る壁の圧迫感に、胸が締め付けられ、息がうまく吸えなくなる。酸素が薄くなっていくような、錯覚ではない、本物の窒息感が喉を襲った。


「走れ、美咲!」

 

 俺は叫び、なりふり構わず前方へと足を突き出した。


 遠くに見えたドアのノブに、必死で手を伸ばす。その瞬間、ドアノブが急激に巨大化し、俺の視界を覆い尽くした。距離感が完全に狂っていた。激しく手をぶつけながらも、俺はノブを掴んで力任せに回し、外へと飛び出した。


 どっと激しい雨が、俺たちの頭上から降り注いだ。


 冷たい雨粒が顔を叩き、肌の熱を奪っていく。濡れたアスファルトの匂いと、激しい雨音が、狂った世界から俺たちを引き戻すかのように五感を刺激した。俺たちはアパートの前の路上で、激しく息を切らせながら四つん這いになっていた。


「はぁ、はぁ……、大丈夫か、美咲」

 

 俺は雨に濡れて顔に張り付いた髪を払いながら、隣の美咲を見た。


「うん、なんとか。……ねえ、健一、上を見て」

 

 美咲の声は、雨の音に消されそうなほど小さかったが、そこには底知れない絶望が滲んでいた。


 俺は恐る恐る、天を仰いだ。


 雨雲が立ち込める夜空の向こう、街灯の光に照らされたビル群が、奇妙な形でそびえ立っていた。並び立つ二棟の高層ビル。その屋上の形状は、片方が鋭角に尖り、もう片方は外側へと広がっている。


 それだけではなかった。ビルの間を走る無数の電線が、巨大な矢印の形を形成し、夜空を複雑に分断していた。


「あそこも、同じだ……」

 

 俺は呆然と呟いた。


 ビルの高さが、見る角度によって、一瞬ごとに伸びたり縮んだりしている。周囲の街並み全体が、あの画用紙の図形と同じように、視覚の錯覚を利用して空間の大きさを変形させているのだ。いや、これは錯覚ではない。世界そのものが、最初からそういう歪んだ構造でできていたのを、俺たちが今、認識してしまっただけなのかもしれない。


「私たちは、最初から大きな檻の中にいたのね」

 

 美咲は冷たい雨の中に座り込んだまま、力なく笑った。その笑い声は、激しい雨の音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。


 激しく降り続く雨は、俺たちの視界をさらに白く濁らせていく。遠くの景色が、まるで水に溶けるインクのように歪み、収縮と拡大を繰り返していた。何が正しくて、何が間違っているのか。どの長さが本物で、どの距離が嘘なのか。


 俺は、隣にいる美咲の顔を見つめた。彼女の顔さえも、一瞬、いつもより長く、あるいは平べったく見えた気がした。俺はただ、自分の感覚がこれ以上崩壊していく恐怖に耐えかねて、濡れた自分の両手で、強く目を覆うことしかできなかった。



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