ミュラー・リヤー錯視の檻(後編)
ミュラー・リヤー錯視の檻(後編)
どれほどの時間が経っただろうか。激しい雨の音が、いつの間にか傘を叩くような静かな音へと変わっていた。俺はゆっくりと両手を顔から離し、恐る恐る目を開けた。
「健一……、まだ、そこにいる?」
隣から聞こえた美咲の声は、まるで遠い水の底から響いてくるように頼りなかった。
「ああ、いるよ。ここにいる」
俺は答えて、彼女の冷え切った手を再び握りしめた。
雨に濡れたアスファルトからは、ツンとした土と油の混ざった匂いが立ち上っている。目の前の視界は先ほどよりもいくらか落ち着きを取り戻しているように見えたが、それはただ、この異常な空間に俺たちの目が慣れてしまっただけのことかもしれない。見上げる夜空の電線は、相変わらず鋭い矢印となって街を切り裂いている。
「ねえ、健一。あのね、少しだけ分かったの」
美咲は濡れた髪をかき上げ、歪んだビルの街並みをじっと見つめた。彼女の瞳は、恐怖を通り越して、どこか奇妙な静けさを湛えている。
「何が分かったんだ?」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。その横顔も、見る角度によって一瞬だけ長く伸び、次の瞬間にはきゅっと縮むように錯覚される。
「この世界はね、私たちの心が作った定規で測られているのよ。文字が読めない私たちが、形や感覚だけで周りの世界を理解しようとするみたいに……、この街も、誰かの強い思い込みで引き伸ばされたり、縮められたりしているの」
彼女の言葉は、雨音に混ざって、不思議な説得力を持って俺の耳に流れ込んできた。
「誰かの、思い込みだって?」
俺は自分の胸に手を当てた。ドクドクと刻まれる心臓の鼓動は、まだ少し早い。
「そう。例えば、あの高く見えるビル。あそこにはきっと、自分の力を誇示したい誰かがいて、その人の心が空間を外側に押し広げているの。逆に、小さく縮んだあの古いアパートには、世間から隠れて生きたい誰かがいて、内側に閉じこもっている……」
美咲は立ち上がり、ふらつく足取りで一歩を踏み出した。
彼女が歩くと、路面の水たまりに映る街灯の光が、生き物のように長く伸びて彼女の足元へと吸い込まれていく。その光景は不気味でありながら、どこか幻想的で、息をのむほど美しかった。
「じゃあ、俺たちの部屋が縮んだのは、どうしてなんだ?」
俺も立ち上がり、彼女の後に続いた。足の裏に感じる地面の感触は、柔らかい泥を踏んでいるかのように不確かに波打っている。
「それはね、私たちが『怖がった』からよ」
美咲は振り返り、寂しげに微笑んだ。
「あの図形を見て、嘘だ、おかしいって拒絶したでしょ? 現実から逃げ出したい、閉じこもりたいって思った心の形が、あの部屋を内向きの矢印に変えちゃったのよ。だから、空間が私たちを押し潰そうとしたの」
その指摘は、俺の胸の奥を鋭く突いた。確かに、あの時俺たちの心を満たしていたのは、得体の知れない恐怖と、すべてをシャットアウトしたいという強い拒絶だった。世界が歪んだのではなく、俺たちの恐怖が世界を歪ませていたのだとしたら。
「もし……、もしそれが本当なら、美咲。俺たちが『世界は広い』と信じれば、この歪みは元に戻るのか?」
俺はかすかな希望を胸に、彼女に問いかけた。
「分からない。でも、やってみる価値はあるわ」
美咲は深く息を吸い込み、胸を張った。彼女の小さな身体が、夜の闇の中で少しだけ大きく見えた。
「私は負けない。この世界がどれだけ歪んで見えても、私の隣にいる健一の長さだけは、絶対に変わらないって信じる」
彼女がそう叫んだ瞬間、世界が大きく脈打った。
ゴォォ、と地鳴りのような音が響き、目の前のビル群が一斉に身震いをする。電線が激しく揺れ、鋭角だった矢印が、ゆっくりと、しかし確実に、ただの直線へと戻り始めた。歪んでいたアスファルトの路面が平らになり、足元が確かな硬さを取り戻していく。
「美咲、見てみろ! 戻っていくぞ!」
俺は歓声を上げ、彼女の肩を抱きしめた。
今度は、彼女の身体から恐怖の冷たさは消えていた。温かい、生きた人間の体温が、服を通して俺の胸にしっかりと伝わってくる。その確かなぬくもりこそが、どんな錯視の図形よりも確かな、俺たちの現実だった。
「ええ、戻っていくわね……。でもね、健一」
美咲は俺の胸に顔を埋めたまま、小さく囁いた。
「私たちはもう、知ってしまったのよ。世界はいつでも、私たちの心一つで簡単に形を変えてしまう、脆い檻だってことを」
雨は完全に上がり、雲の切れ間からかすかな星の光が差し込み始めていた。水たまりに映る俺たちの影は、今はもう、普通と同じ、ただの二つの影に戻っていた。しかし、俺は知っている。次にどちらかが心を閉ざした時、あの内向きの矢印が、再び音もなく俺たちを閉じ込めに来るということを。




