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歪んだ世界のエンディングノート

歪んだ世界のエンディングノート


 雨上がりの月明かりが、静まり返った部屋の畳を白く照らしていた。


 座卓の上には、一冊の分厚いノートが広げられている。表紙には、俺の不器用な筆跡で『エンディングノート』とだけ大きく書かれていた。文字を読むのも書くのも一苦労する俺たちが、万が一のときのために、自分たちの生きた証を遺そうと一文字ずつ紡いできたノートだ。


「健一、そこには私の大好きな花の名前、ちゃんと書いてくれた?」

 

 美咲は座卓の向こう側から、身を乗り出すようにして聞いてきた。彼女の瞳は、窓から差し込む月光を反射して、まるで夜露に濡れた紫陽花のように静かに輝いている。


「ああ、忘れるわけないだろ。カサブランカと、初夏に咲く青いアジサイ、それから春のロータリーに咲く河津桜だ。君が綺麗だと言った花は、全部ここに書き留めてある」

 

 俺はノートの余白に目を落とした。そこには、俺たちにしか分からない、歪んだ直線の数々が並んでいる。文字が苦手な俺にとって、このノートは言葉の羅列ではない。美咲と過ごした景色の記憶、そのものの形だった。


「ありがとう。私ね、もし自分がこの世界からいなくなるときが来たら、あのミュラー・リヤーの矢印みたいに、みんなの記憶の中でびゅーんと引き伸ばされて、いつまでも長く残っていたいな」

 

 美咲はいたずらっぽく笑いながら、細い指先でノートの端をなぞった。


「縁起でもないことを言うなよ。エンディングノートなんて書いているけれど、これは俺たちがこれからどうやって正しく生きていくかを決めるためのものなんだからな」

 

 俺はわざとぶっきらぼうな声を出して、ノートをめくった。


 次のページには、俺たちの『財産』のことが書いてある。スマートフォンも持たず、通帳の数字を数えるのにも時間がかかる俺たちだが、ここには二人でコツコツと貯めてきた小さな幸せの記録が、具体的な数字ではなく、手をつないだ回数や、一緒に食べた温かいカツカレーの思い出として刻まれていた。


「ねえ、健一。もしね、もしも私の目に見える世界が、またあの夜みたいに歪み始めたら……。そのときは、迷わずこのノートを開いてね」

 

 美咲の声から、ふっとお調子者の響きが消えた。彼女の手が、俺のノートを握る手に重なる。その手のひらは、あの雨の夜の凍えるような冷たさではなく、確かに血の通った、じんわりとした温かさを持っていた。


「このノートに書かれた線はね、どんな錯覚にも負けない、本当の直線だから。世界がどれだけ伸縮して私たちを騙そうとしても、ここに書いた私たちの歴史だけは、絶対に縮んだりしないわ」

 

 美咲の言葉が、部屋の隅々にまで染み渡るように響いた。


 窓の外からは、夜の湿った土の匂いと、どこかの庭から漂ってくるローズマリーのみずみずしい香りが風に乗って運ばれてくる。五感のすべてが、今、ここにある現実が本物だと告げていた。


「分かっているよ。世界がどれだけ俺たちの目を狂わせようとしても、このノートを開けば、いつでも正しい距離に戻れる。君との距離も、この部屋の広さもな」

 

 俺は美咲の手を強く握り返した。


 エンディングノート――それは人生の終わりを準備するためのものではない。視覚も、空間も、心ひとつで簡単に歪んでしまうこの不確かな世界の中で、俺たちが「確かにここに生きて、お互いを愛した」という絶対的な基準点を遺すための、俺たちだけの揺るぎない定規なのだ。俺はノートをそっと閉じ、美咲の優しい笑顔を、その表紙の真っ直ぐな線の向こう側に見つめ続けた。



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