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見えない絵 反転図形 文脈効果

見えない絵


 六月の雨上がりだった。


 富子は朝のラジオ体操から帰る途中、公民館の前で足を止めた。濡れたアスファルトから立ち上る土の匂いが鼻をくすぐる。紫陽花の花びらにはまだ雨粒が残り、曇り空の光を受けて小さな宝石のように光っていた。


 玄関先に貼り紙がある。


『脳トレ教室 だまし絵と錯視の世界』


「だまし絵?」


 富子は首をかしげた。


 暇だった。


 帰っても一人だ。


 それに参加費は無料と書いてある。


「ちょっと見てみようかねえ」


 そう呟いて中へ入った。


 会場には二十人ほどの高齢者が集まっていた。


 講師の若い女性が笑顔で言う。


「今日は不思議な絵を見ていただきます」


 配られた紙には白と黒の図形が描かれていた。


 富子は目を細める。


「花瓶かね」


「え?」


 隣のおばあさんが驚いた。


「向かい合った人の顔に見えるよ」


「顔?」


 富子はもう一度見る。


 本当だ。


 黒い部分が二人の横顔になっている。


「不思議だねえ」


 会場がざわつく。


「花瓶だ」


「いや顔だろう」


「両方見える」


 講師が微笑んだ。


「これを反転図形といいます」


 富子は紙を見つめた。


 花瓶に見えたものが顔になり、顔に見えたものが花瓶になる。


 見ようと思った方しか見えない。


 それが妙に気になった。


 教室が終わる頃には昼近くになっていた。


 帰り道。


 富子は商店街の弁当屋で鮭弁当を買った。


 焼き鮭の香ばしい匂いが食欲を誘う。


 部屋へ戻り、麦茶を飲みながらテレビをつける。


 ニュース番組では若い芸人の不祥事が報じられていた。


 司会者が険しい顔をしている。


「最低だねえ」


 富子は思わず呟いた。


 だが次の瞬間、ふと反転図形を思い出した。


 テレビが映しているのは一部分だけだ。


 もしかすると事情があるのかもしれない。


「いやいや、でも悪いことは悪いし」


 自分で言って、自分で首をひねる。


 その日の夕方。


 和俊がやってきた。


 薄い灰色のポロシャツにジーンズ姿だ。


 買ってきたコンビニのシュークリームを机に置く。


「母さん、どうした?」


「今日ね、変な絵を見たんだよ」


「変な絵?」


「花瓶にも顔にも見えるやつ」


 和俊は笑った。


「ああ、知ってる」


「知ってるの?」


「心理学の本で見た」


 富子は驚いた。


 息子は意外と物知りだった。


 シュークリームを頬張りながら和俊が言う。


「人間って見たいものを見るんだよ」


「見たいもの?」


「うん」


 富子はその言葉を胸にしまった。


 数日後。


 公園でラジオ体操を終えた帰りだった。


 例のブルームーンを見に行くという女性が話しかけてきた。


「この前ね、旅行会社で相談したの」


「へえ」


「でも高いのよ」


 彼女は苦笑した。


 すると近くにいた別の女性が口を挟む。


「そんなのテレビで見れば十分じゃない」


 空気が少し凍った。


 ブルームーンの女性は笑顔を作ったが、その目が少し曇った。


 富子は以前なら何も思わなかっただろう。


 だが今は違った。


 反転図形を思い出した。


 同じ言葉でも見え方が違う。


 テレビで十分。


 そう聞けば合理的だ。


 だが相手によっては夢を否定されたようにも感じる。


 花瓶か。


 顔か。


 どちらを見るかで世界が変わる。


 その夜だった。


 雨が降り始めた。


 屋根を叩く音が静かな部屋に響く。


 富子は湯豆腐を作った。


 昆布だしの香りが立ちのぼる。


 湯気で曇った窓を見ながら箸を動かしていると、昔のことを思い出した。


 若い頃。


 夫と大喧嘩した日のことだ。


「あなたは私の話を聞かない!」


 そう怒鳴った。


 だが夫は言った。


「聞いてるじゃないか」


 当時は腹が立った。


 聞いているだけで理解していない。


 そう思った。


 けれど今なら少し違う見方もできる。


 夫は夫なりに聞いていたのかもしれない。


 ただ違う花瓶を見ていただけなのだ。


 富子は箸を止めた。


「今ごろ気づいても遅いかねえ」


 誰もいない部屋で笑った。


 窓の外では雨が強くなっている。


 翌週。


 再び脳トレ教室へ行った。


 今度は別の絵だった。


 若い女性にも老婦人にも見える絵。


「どっちが見える?」


 講師が尋ねる。


「若い女の子」


「いや、おばあさん」


 意見が分かれる。


 富子はしばらく眺めていた。


 すると突然、若い女性が老婦人へ変わった。


「あっ!」


 思わず声が出た。


 世界がひっくり返るような感覚だった。


 講師が言う。


「これを文脈効果といいます」


「文脈?」


「先に何を見せられたか、何を聞いたかで見え方が変わるんです」


 富子は胸を突かれた。


 何を聞いたかで見え方が変わる。


 何を信じたかで見え方が変わる。


 それは絵だけじゃない。


 人間も同じだ。


 帰り道。


 風が吹いた。


 青葉が揺れる。


 木漏れ日が地面に踊っている。


 富子は立ち止まった。


 人生にも反転図形があるのかもしれない。


 若い頃は不幸だと思っていた出来事。


 だが歳を取って振り返ると、あれがあったから今の自分がいる。


 失敗だと思ったことが経験になり、遠回りだと思った道が近道だったりする。


 花瓶が顔になるように。


 顔が花瓶になるように。


 世界は一つではない。


 夕暮れ。


 西の空が茜色に染まっていた。


 富子はゆっくり歩く。


 買い物袋の中には半額になった鯖の切り身と豆腐、それに小さなトマト。


 今夜は鯖の塩焼きにしよう。


 ふと空を見上げる。


 雲の切れ間から光が差していた。


「聞く力か」


 父の言葉を思い出す。


「耳は二つ、目は二つ、口は一つ」


 若い頃は説教だと思っていた。


 でも今なら少し分かる。


 一つの見方だけで決めつけない。


 相手の見ている花瓶を想像する。


 それも聞くことなのかもしれない。


 富子は微笑んだ。


 夕風が頬を撫でる。


 どこからかカレーの匂いが流れてきた。


 子どもたちの笑い声も聞こえる。


 世界は何も変わっていない。


 けれど少しだけ、見え方が変わった。


 それだけで、帰り道の景色は昨日より少し優しく見えた。



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