『善人の仮面』モラル信任効果
『善人の仮面』モラル信任効果
「私は、悪いことなんてしていない」
そう言い切った男の手は、震えていた。
十一月の冷たい雨が、東京の街を濡らしていた。
高層ビルの窓を雨粒が伝い、夕暮れの道路には赤いテールランプが滲んでいる。
食品会社「青葉フーズ」の営業部長、佐伯隆司は、会議室で一枚の報告書を見つめていた。
「部長……本当に、これでいいんですか?」
向かいに座る若手社員の美咲が、不安そうに尋ねた。
「何がだ?」
「先月の売上報告です。返品された商品の分まで、売上に含まれています」
佐伯は眉をひそめた。
「今月中に再販売する予定だ。大した問題じゃない」
「でも、まだ売れていません」
「細かいことを言うな」
佐伯は書類を机に置いた。
「私はこの会社のために、二十年間働いてきたんだぞ」
美咲は黙った。
「不景気のときには、自分の給料を削って部下の賞与を守った。災害が起きれば、休日を返上して支援物資を届けた」
佐伯の声が強くなった。
「そんな私が、会社を騙すようなことをすると思うか?」
「……そういう意味ではありません」
「だったら、もういい」
美咲は唇を噛んだ。
窓の外で、雨脚が強まった。
* * *
佐伯は、社内で評判のよい上司だった。
困っている部下には必ず声をかけ、病気の社員がいれば見舞いに行く。
毎年、地域の清掃活動にも参加していた。
「佐伯部長って、本当に立派な人よね」
「この前も、児童養護施設に寄付したらしいよ」
「部長みたいな人が上にいると安心するわ」
そんな声を聞くたび、佐伯は誇らしい気持ちになった。
ある日の昼休み。
佐伯は部下たちに囲まれていた。
「部長、また寄付をされたんですか?」
「ああ。少しだけな」
「すごいですね。私なんて、自分の生活で精いっぱいです」
「金額じゃない。気持ちが大切なんだよ」
佐伯は穏やかに笑った。
「人間、正しいことをして生きなければならないからね」
その言葉に、周囲から感心の声が上がった。
佐伯は満足していた。
自分は誠実な人間だ。
人のために働き、社会に貢献している。
だから、多少の融通を利かせることくらい、許されるはずだ。
そんな考えが、いつの間にか心の奥に根を下ろしていた。
* * *
翌週。
佐伯は営業会議で、さらに大胆な提案をした。
「来月の売上見込みを、少し前倒しで計上しよう」
経理担当の中村が顔を上げた。
「部長、それは会計上、問題があります」
「問題?」
「まだ契約が成立していない案件も含まれています」
佐伯はため息をついた。
「中村君。君は数字しか見ていないのか?」
「……どういう意味でしょうか」
「この会社には、何百人もの社員がいる。売上が悪ければ、賞与が減るかもしれない。生活に困る家族も出てくる」
「それは分かります。しかし……」
「私は社員を守りたいんだ」
佐伯は胸を張った。
「少しくらい数字を調整しても、後で実績が追いつけばいいだろう」
中村は困惑した。
「それでも、事実と違う報告はできません」
「君は冷たい人間だな」
佐伯の声が低くなった。
「規則を守ることと、人を守ること。どちらが大切なんだ?」
会議室が静まり返った。
誰も答えられなかった。
美咲は膝の上で拳を握った。
尊敬していた上司が、少しずつ別人になっていくように感じられた。
* * *
その夜。
佐伯は自宅の食卓で、妻の由紀に話しかけた。
「今日も部下に厳しいことを言ってしまったよ」
由紀は温かな味噌汁を差し出した。
「珍しいわね。あなたがそんなことを言うなんて」
「最近の若い社員は、会社全体のことを考えないんだ」
「何かあったの?」
「少し数字を調整するだけなのに、大騒ぎするんだよ」
由紀の手が止まった。
「……数字を調整?」
「売上の計上時期を変えるだけさ」
「それって、本当にしていいことなの?」
佐伯は箸を置いた。
「君まで私を疑うのか?」
「疑っているんじゃないわ。ただ……」
「私は二十年間、真面目に働いてきた。人助けもしてきた。誰よりも会社を大切にしている」
由紀は静かに夫を見つめた。
「あなたが優しい人だってことは、知っているわ」
「だったら……」
「でもね、隆司さん」
由紀はゆっくりと言った。
「昨日いいことをしたからって、今日の間違いが正しくなるわけじゃないでしょう?」
佐伯は言葉を失った。
時計の秒針が、静かな食卓に響いていた。
「……君には、仕事の苦労が分からない」
そう言い残し、佐伯は席を立った。
* * *
十二月。
社内監査が始まった。
経理部から提出された資料には、売上の不適切な計上がいくつも記されていた。
佐伯は役員会議室に呼ばれた。
「佐伯部長。この数字について説明してください」
社長の声は厳しかった。
「……営業上の判断です」
「契約前の案件を、売上として報告したのですか?」
「会社を守るためでした」
「事実と異なる報告をすることが、会社を守ることになるのですか?」
佐伯は拳を握りしめた。
「私は、これまで会社に尽くしてきました!」
声が会議室に響いた。
「社員のために、どれだけ苦労してきたと思っているんですか!」
社長は静かに答えた。
「あなたの功績は認めています」
「だったら!」
「しかし、功績と今回の問題は別です」
佐伯の顔から血の気が引いた。
「……別?」
「過去の善行が、現在の不正を帳消しにすることはありません」
その言葉は、佐伯の胸に深く突き刺さった。
彼は初めて、自分が何をしてきたのかを考えた。
* * *
監査の結果、佐伯は営業部長の職を解かれ、一定期間の出勤停止処分を受けた。
不適切な売上計上は訂正され、会社は再発防止策を講じることになった。
処分を受けた日の夕方。
佐伯は会社近くの公園に座っていた。
冬枯れの木々が風に揺れ、足元には乾いた落ち葉が積もっていた。
「……佐伯部長」
声をかけたのは、美咲だった。
佐伯は顔を上げた。
「……もう、部長じゃないよ」
美咲は少し迷ってから、隣のベンチに腰掛けた。
「お話ししてもいいですか?」
「……ああ」
「私、部長のことを尊敬していました」
佐伯は目を伏せた。
「過去形か」
「……今でも、助けていただいたことには感謝しています」
「そうか」
「でも、あの売上報告は間違っていたと思います」
佐伯は苦笑した。
「君は、最後まで厳しいな」
「……怖かったんです」
美咲の声が震えた。
「部長に逆らったら、嫌われるかもしれない。評価が下がるかもしれない。でも、黙っていたら、自分まで嘘をつくことになる気がして……」
佐伯は顔を上げた。
美咲の目には涙が浮かんでいた。
「部長は、私が入社したとき、こう言ってくださいました」
「……何と?」
「『間違っていると思ったら、相手が誰でも声を上げなさい』って」
佐伯の胸が痛んだ。
覚えていた。
新人研修の日、自分が確かに言った言葉だった。
「……そうだったな」
「だから私、勇気を出したんです」
美咲は涙を拭った。
「部長が教えてくれたことを、守りたかったから」
佐伯は両手で顔を覆った。
「……私は……」
声が震えた。
「……私は、何をしていたんだろうな……」
冬の風が、二人の間を吹き抜けた。
「善いことをしてきたつもりだった」
佐伯はゆっくりと話し始めた。
「寄付もした。社員を助けた。地域の活動にも参加した」
「はい」
「だから、自分は正しい人間だと思い込んでいた」
彼は落ち葉を一枚拾った。
「……そして、正しい人間である自分がすることなら、多少の間違いは許されると思ってしまったんだ」
美咲は静かに頷いた。
「それが、モラル信任効果という認知バイアスに近いものなのかもしれません」
「モラル信任効果?」
「過去に善いことをしたという実感が、次の行動への警戒心を弱めてしまうことがあるそうです」
佐伯はしばらく黙っていた。
「……善いことをしたから、悪いことをしてもいい」
「そこまで意識していなくても、自分に甘くなってしまうことがあるんだと思います」
佐伯は苦しそうに笑った。
「……私は、まさにそうだった」
遠くで子供たちの笑い声が響いた。
冬の夕陽が、公園の木々を黄金色に染めていた。
* * *
数か月後。
佐伯は一般社員として、別の部署で働き始めた。
以前のような大きな権限はない。
会議で発言する機会も減った。
それでも、彼は毎朝、誰よりも早く出社した。
ある日、後輩が尋ねた。
「佐伯さん。どうして、そんなに丁寧に数字を確認するんですか?」
佐伯は手を止めた。
「……昔、大きな間違いをしたからだよ」
「間違い?」
「ああ。自分は善い人間だから、少しくらい規則を曲げてもいいと思ってしまった」
後輩は驚いた。
「そんなことがあったんですか?」
「恥ずかしい話だけどね」
佐伯は穏やかに笑った。
「だから、今は一つずつ確かめることにしている」
「何をですか?」
「自分の判断が、本当に正しいかどうかを」
窓の外では、春の桜が咲き始めていた。
薄桃色の花びらが風に舞い、柔らかな陽射しが机の上に落ちていた。
佐伯は引き出しから、一枚の小さな紙を取り出した。
そこには、妻の由紀が書いてくれた言葉があった。
『昨日の善行は、今日の免罪符にはならない。』
佐伯はその文字を見つめ、静かに頷いた。
「……今日も、正しくありたいな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
かつて彼は、自分を善人だと信じていた。
けれど今は、善人であると証明することよりも、目の前の一つ一つの選択を誠実に行うことの大切さを知っていた。
人は、善い行いを積み重ねることができる。
しかし、その積み重ねを理由に、自分の過ちを許してしまうこともある。
だからこそ、必要なのだ。
昨日の自分を誇るだけではなく、今日の自分を問い直すことが。
春風が窓を揺らした。
佐伯は新しい報告書を開き、数字を一つずつ確かめ始めた。
その横顔には、以前のような自信に満ちた笑みはなかった。
代わりに、間違いを恐れながらも、正しく生きようとする静かな決意が宿っていた。
――おしまい。
この物語で描いた\*\*モラル信任効果\*\*とは、過去に善い行いをしたという意識によって、その後の問題のある行動を自分に許しやすくなる心理現象です。
物語の核となる言葉は、「昨日の善行は、今日の免罪符にはならない。」
善い人であるという自信と、実際に善い選択をし続けることは別なのだ、という教訓を込めました。




