『白銀の免罪符』モラル信任効果
『白銀の免罪符』
十一月の初め、東京・大手町の高層ビル街には、夕暮れとともに冷たい木枯らしが吹き抜けていた。
ガラス張りのエントランスから吐き出されるスーツ姿の群れは、首元をすぼめて地下鉄の入り口へと急いでいく。その無機質な人の波を見下ろす三十階のカフェテリアで、大手総合PR会社「アーク・コミュニケーションズ」のシニアディレクター、長峰隆介は、手元のタブレットに視線を落としていた。
アイスカフェラテの氷が溶け、グラスの側面に冷たい水滴が幾筋も伝い落ちている。
「長峰さん、お疲れ様です。……これ、明日の朝一番でプレスリリースを出す予定の、グリーン・サステナビリティ基金の活動報告書です」
向かい側の席に腰を下ろしたのは、入社三年目の女性アソシエイト、如月麻衣だった。幾分疲れた顔をしているが、その瞳には仕事への真摯な熱が宿っている。
「ああ、如月。ご苦労様。……うん、数字は申し分ないな。我が社が主導した海洋プラスチック回収キャンペーンは、目標の百五十パーセントを達成。ウクライナ避難民支援のチャリティオークションも、業界紙で大きく取り上げられた。文句のつけようがない完璧なCSR実績だよ」
長峰は自慢げに口角を上げた。四十代半ば、仕立てのいい濃紺のスーツに磨き抜かれた革靴。社内外で「人格者」「社会派のエース」として名高い男の、絵に描いたような端整な笑顔だった。
「はい。クライアント各社からの評判も上々です。長峰さんが旗振りをしてくださったおかげで、業界内での我が社の『社会的信頼度』は過去最高を記録しました」
「当然さ。企業の価値は、単なる売上じゃない。どれだけ社会に善を還元できるかだ。……俺はね、如月。日頃からこうして誰よりも正しい行いをしているという自負がある。だからこそ、自分の仕事に一点の曇りもないと胸を張れるんだ」
長峰は胸ポケットから銀の万年筆を抜き、報告書の承認欄に流麗なサインを走らせた。
その手付きには、絶対的な正義を執行する者の淀みなさがあった。
如月は書類を受け取ると、しかし、どこか躊躇うように視線を泳がせた。
「あの……長峰さん。実は、もう一件。例の『東洋ケミカル』の件なのですが」
長峰の手が、わずかに止まった。
「東洋ケミカルが、どうした?」
「下請け工場に対する資材の買いたたきと、産業廃棄物の不法投棄疑惑の件です。内部告発の音声データと、帳簿の写しが週刊誌にリークされかけています。あちらの広報部長から、至急の危機管理対応の要請が入っています」
「ああ、その件か」
長峰は平然とした顔でアイスラテを一口すすった。
「もみ消せ」
短く、乾いた声だった。
如月は息を呑み、目を見開いた。
「……え? もみ消す、とは……どういうことですか?」
「言葉通りの意味だよ。週刊誌の編集長は俺の大学の同期だ。今夜、赤坂の料亭で飯を食うことになっている。適当に別のスキャンダルネタを餌に投げて、記事の差し止めを頼む。告発した下請けの社長には、契約解除をちらつかせて口頭での謝罪と守秘義務の再確認を取り付けろ」
「そんな……! 長峰さん、東洋ケミカルの投棄場所は、下流の農地に繋がる河川敷なんですよ!? 土壌汚染の数値も基準値を大幅に超えていると、告発資料に書いてあります。これは明らかな違法行為です。事実関係を調査して、会見を開き、誠実に是正を求めるのが筋ではありませんか!」
如月の声が震えていた。周囲のボックス席にいた客が、ちらりとこちらを見る。
長峰は眉一つ動かさず、静かに人差し指を唇に当てた。
「声を落とせ、如月。ここは公共の場だ」
「ですが……!」
「いいかい、よく聞きなさい」
長峰は身を乗り出し、父親が分別のある子供を諭すような、低く柔らかな声で言った。
「世の中には優先順位というものがある。東洋ケミカルは、さっき承認した我が社の『グリーン・サステナビリティ基金』の筆頭出資企業なんだ。彼らが年間いくら環境保護に寄付していると思う? 五千万円だよ。彼らが倒れたら、来期の植林事業も、子供たちの自然体験スクールも全部吹き飛ぶんだ」
「それは……そうかもしれませんが、だからといって不正を見逃していい理由にはなりません!」
長峰は小さくため息を吐き、老眼鏡を外してクロスで拭き始めた。
その目元には、憐憫に似た冷笑が浮かんでいた。
「如月。君はまだ若いから、物事のバランスというものが分かっていない。……俺たちを見てごらん。俺は毎週末、恵まれない子供たちへの学習支援ボランティアに行っている。先月だって、私財から百万円を盲導犬協会に寄付したばかりだ。我が社も、そして俺自身も、他のどの連中よりも莫大な『善行』を積み重ねてきたんだよ」
「……それが、今回の件と何の関係があるんですか」
「大ありだよ」
長峰はきっぱりと言い放った。
「何百、何千という善行を積み上げてきた人間が、組織を守り、大義を維持するために、ほんの少しの泥を被る。その程度の帳尻合わせが許されないはずがないだろう。プラスマイナスで言えば、我が社が社会にもたらしているプラスの方が圧倒的に大きいんだ。少々の違反に目をつぶったところで、俺たちの道徳的な清廉潔白さが揺らぐとでも思うのかい?」
如月は背筋が凍りつくのを覚えた。
(……モラル信任効果)
大学の心理学の講義で聞いた言葉が、突如として脳裏に蘇った。
過去に自分が「正しい行い」をしたという自負や実績がある人間ほど、自分は道徳的な人間だと過信し、その後の非道徳的な行為や不正に対して罪悪感を失い、平然と手を染めてしまうという、あの恐ろしい認知バイアス。
目の前にいる男は、悪党として悪事を働いているのではない。
『自分は人一倍善良な人間なのだから、この程度の悪事は大目に見られて当然だ』という、絶対的な自己陶酔と免罪符を握りしめて、平然と毒水を川に流そうとしているのだ。
「長峰さん……。それは、ただの傲慢です。過去の善行は、未来の悪事を正当化する免罪符にはなりません」
如月の唇が、悔しさと恐怖で小刻みに震えた。
テーブルの下で、膝の上の拳を白くなるほど強く握りしめる。
「傲慢?」
長峰は心外そうに片眉を吊り上げた。
「心外だな。俺は極めて現実的で、大局的な判断をしているだけだ。世の清濁を併せ呑んでこそ、本当のプロフェッショナルだよ。綺麗事だけで世界が救えると思っているなら、今すぐ机の上の荷物をまとめて田舎へ帰るんだね」
長峰は伝票を掴むと、椅子を引いて立ち上がった。
仕立ての良いスーツを軽く撫で下ろし、窓の外の暮れなずむ空を見つめる。
ビルの谷間に沈む夕陽が、まるで血のように赤く、冷たいコンクリートの街並みを染め上げていた。
「如月、お前も早く大人になりなさい。清濁の『清』を十個作ったら、『濁』の一つや二つは上手に飲み干してやるのが、世の中に対する大人の責任ってもんさ。……じゃあ、赤坂に行ってくる。明日の朝には、すべて綺麗に片付いているよ」
カツ、カツ、と磨かれた革靴の音が、硬い大理石の床に小気味よく響く。
長峰は一度も振り返ることなく、エレベーターホールへと消えていった。
残されたカフェテリアの席で、如月は冷え切ったアイスラテのグラスを見つめていた。
溶けた氷のせいで、琥珀色だったコーヒーは薄気味悪く濁り、底に沈んだガムシロップだけがドロリと淀んでいる。
「……信じていたのに」
如月の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、テーブルの上の白い活動報告書に丸い染みを作った。
『私たちは、未来の子供たちのために美しい地球を守ります』
金色の飾り文字で印刷されたその美しいスローガンが、まるで醜い怪物の吐き出した嘲笑のように、夕闇の中で虚しく光っていた。




