『すべてを操れると思った男』 ――コントロール幻想:人生を支配しようとした男が失ったもの
認知バイアス小説
『すべてを操れると思った男』
――コントロール幻想:人生を支配しようとした男が失ったもの
心理学をテーマにした約3,000文字の物語。仕事、お金、投資、家族を通して、人間が陥りやすい「コントロール幻想」の恐ろしさと、そこから抜け出す知恵を描く。
第一章 俺の人生に偶然などない
午前6時。
東京・港区の高層マンション。
地上38階の窓から、朝日に染まる東京タワーが見えた。
高級腕時計を身につけた黒田隆一、45歳。
年収3,000万円。
金融会社の営業部長。
株式投資でも成功し、金融資産は1億2,000万円を超えていた。
「人生なんて簡単だ」
黒田はエスプレッソを飲みながら笑った。
「努力して、計画して、正しい判断をすればいい。それだけだ」
妻の美咲がキッチンから声をかけた。
「あなた、今日の天気予報、午後から大雨ですって」
「大丈夫だ。車で行く」
「でも、道路が混むかもしれないわよ」
黒田は鼻で笑った。
「俺は渋滞を避ける道を知っている」
「事故があったら?」
「そんなことまで心配してどうする」
「ただ、気をつけてって……」
「美咲!」
黒田の声が鋭くなった。
「成功する人間と失敗する人間の違いを知っているか?」
妻は黙った。
「成功する人間は、自分の人生をコントロールする。失敗する人間は、運や環境のせいにするんだ」
美咲は小さくため息をついた。
「でも、世の中には自分ではどうにもできないこともあるでしょう?」
「それは弱い人間の言い訳だよ」
黒田は自信満々に笑った。
彼はまだ知らなかった。
自分が信じている「支配力」の大部分が、脳の作り出した幻想かもしれないことを。
第二章 勝つことが分かっている投資
その日の午後。
オフィスの窓に雨粒が激しく打ちつけていた。
部下の佐藤が、緊張した顔で黒田の席に近づいた。
「部長、少しよろしいでしょうか」
「何だ?」
「例の新興企業の株ですが、かなり値上がりしていますね」
黒田は得意げに笑った。
「当然だ。俺が選んだ銘柄だからな」
「でも、最近は市場全体が上がっています。運の要素も……」
「運?」
黒田の表情が変わった。
「佐藤、お前はいつまでそんな考え方をしているんだ?」
「いえ、ただ……」
「俺は企業の決算書を読み、経営者を分析し、チャートを研究している。勝つべくして勝っているんだ」
佐藤は言いにくそうに続けた。
「ただ、一つの銘柄に資金を集中させすぎていませんか?」
「集中投資こそ大きく稼ぐ秘訣だ」
「万が一、予想外のニュースが出たら……」
「俺の予想は外れない」
その瞬間、佐藤は黙り込んだ。
黒田はパソコン画面を見つめた。
緑色の数字が並んでいる。
含み益、プラス2,400万円。
胸の奥から熱い興奮が湧き上がった。
「見ろ、佐藤。これが実力だ」
しかし、彼は気づいていなかった。
利益が出たときは自分の能力のおかげだと考え、損失が出たときは市場や他人のせいにしていたことに。
第三章 赤い数字
三週間後。
午前9時12分。
黒田のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたニュース。
『投資先企業に重大な会計上の問題が発覚』
「……何だ、これは?」
黒田の指が止まった。
株価は急落していた。
マイナス10%。
マイナス18%。
そして、売り注文が殺到した。
「ふざけるな!」
黒田は机をたたいた。
「こんなこと、予想できるわけがない!」
佐藤が駆け寄ってきた。
「部長! 大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけがないだろう!」
「だから、分散投資を……」
「今さら説教するな!」
黒田の顔は真っ赤だった。
午後3時。
含み損は4,800万円に膨らんでいた。
昨日まで自信に満ちていた男は、椅子に深く沈み込んでいた。
「おかしい……」
震える声が漏れた。
「俺は全部調べた。決算も、経営者も、業界も……」
佐藤が静かに言った。
「部長、調べても分からないことはあります」
「そんなはずはない」
「市場には、自分の力で動かせないことが山ほどあるんです」
黒田は顔を上げた。
「つまり、俺が無能だと言いたいのか?」
「違います」
佐藤は首を横に振った。
「自分が正しい判断をすることと、結果を完全に支配できることは違うんです」
黒田は何も答えなかった。
窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。
第四章 家族まで支配しようとした男
その夜。
黒田は帰宅すると、息子の悠斗がリビングでゲームをしているのを見つけた。
「悠斗! 何をやっている!」
「えっ? ゲームだけど」
「勉強はどうした!」
「もう終わったよ」
「そんなはずないだろう!」
黒田はゲーム機を取り上げた。
「お前は将来、医者になるんだろう!」
悠斗は唇をかんだ。
「……僕、医者になりたいなんて言ってない」
「何?」
「お父さんが勝手に決めたんだよ!」
部屋の空気が凍りついた。
「お前のためを思って言っているんだ!」
「違う!」
悠斗の目に涙が浮かんだ。
「お父さんは、僕を自分の思いどおりにしたいだけだ!」
黒田の胸に怒りがこみ上げた。
「親に向かって何だ、その口の利き方は!」
「僕はお父さんの会社の部下じゃない!」
悠斗は叫ぶと、自分の部屋へ駆け込んだ。
激しく閉まるドアの音。
沈黙。
美咲が静かに口を開いた。
「あなた……」
「何だ」
「あなたは、何でも自分の思いどおりになると思っているのね」
「家族の将来を考えているだけだ」
「でも、悠斗には悠斗の人生があるのよ」
「俺の言うとおりにすれば成功する」
美咲の目が潤んだ。
「あなた……人間は株価じゃないの」
黒田は言葉を失った。
「愛することと、相手をコントロールすることは違うのよ」
その言葉は、損失の数字よりも深く、黒田の胸に突き刺さった。
第五章 心理学者の一言
数日後。
黒田は古い友人で心理学者の高橋と会っていた。
静かな喫茶店。
窓の外では銀杏の葉が舞っている。
「高橋、俺は何を間違えたんだ?」
黒田は疲れ切った声で尋ねた。
高橋はコーヒーを置いた。
「黒田、お前は『コントロール幻想』という言葉を知っているか?」
「コントロール幻想?」
「心理学でいう認知バイアスの一つだ」
「どういう意味だ?」
「実際には自分で支配できない出来事まで、自分の力でコントロールできると思い込むことだよ」
黒田は眉をひそめた。
「例えば?」
「サイコロを振るとき、強く投げれば大きな数字が出る気がする人がいる」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうか?」
高橋は笑った。
「投資で利益が出たとき、お前は自分の実力だと思っただろう?」
「……ああ」
「でも、市場全体の上昇や、偶然の影響もあったはずだ」
黒田は黙った。
「お前は努力すれば必ず成功できると思っていた。しかし、努力で成功の可能性を高めることはできても、成功そのものを保証することはできない」
「じゃあ、努力には意味がないのか?」
「逆だよ」
高橋は身を乗り出した。
「努力する意味は大きい。ただし、自分が操作できる部分と、できない部分を区別する必要がある」
「どうやって?」
高橋は紙に二つの円を描いた。
一つは小さな円。
もう一つは、その外側を囲む大きな円。
「小さな円は、自分が直接コントロールできること。行動、準備、学習、判断だ」
「大きな円は?」
「自分が気にしているけれど、完全には支配できないこと。株価、景気、他人の感情、子どもの将来、運命だ」
黒田は紙を見つめた。
「俺は……大きな円まで支配しようとしていたのか」
「そういうことだ」
高橋は静かに言った。
「そして、支配できないものを支配しようとすると、人間は怒り、不安、恐怖に振り回される」
黒田の目から、初めて強がりが消えた。
第六章 握りしめた手を開く
その夜。
黒田は息子の部屋の前に立っていた。
何度もノックしようとして、手を止めた。
そして、小さく扉をたたいた。
「悠斗、少しいいか?」
「……何?」
「話がある」
扉が開いた。
悠斗は警戒した目で父親を見た。
黒田は深く頭を下げた。
「すまなかった」
「えっ?」
「お父さんは、お前の人生まで自分で決められると思っていた」
悠斗は黙っていた。
「医者になれと言ったのも、俺が安心したかったからかもしれない」
「……本当に?」
「ああ」
黒田は息を吸った。
「お前は、将来何になりたいんだ?」
悠斗は少し迷ってから答えた。
「ゲームを作る仕事がしたい」
以前なら、黒田は即座に否定しただろう。
しかし、その夜は違った。
「そうか」
「怒らないの?」
「怒らない」
「反対しない?」
「心配はする。でも、まず話を聞かせてくれ」
悠斗の表情が少し緩んだ。
「僕ね、今、自分でゲームを作ってるんだ」
「本当か?」
「うん。まだ全然うまくないけど」
黒田は微笑んだ。
「見せてくれるか?」
「……いいよ!」
息子の顔に、久しぶりの笑顔が戻った。
黒田は胸が熱くなるのを感じた。
俺は、この笑顔をずっと見失っていたのかもしれない。
最終章 人生は操縦できても、天候は選べない
一年後。
黒田の投資資産は、まだ以前の水準には戻っていなかった。
しかし、彼の生活は変わっていた。
投資では分散とリスク管理を重視するようになった。
会社では部下の意見を聞くようになった。
家庭では、息子の話を最後まで聞くようになった。
ある朝。
佐藤が尋ねた。
「部長、最近、随分変わりましたね」
黒田は笑った。
「そうか?」
「以前は何でも予想どおりにしようとしていました」
「今でも予想はするよ」
「でも、外れても怒らなくなりましたね」
黒田は窓の外を見た。
空には灰色の雲が広がっていた。
「佐藤、船の船長は何ができると思う?」
「船を操縦することですか?」
「そうだ。でも、風の向きや波の高さまでは決められない」
「確かに」
「人生も同じなんだ」
黒田は静かに続けた。
「自分の行動は選べる。準備もできる。危険に備えることもできる」
「でも?」
「結果のすべては選べない」
佐藤はうなずいた。
黒田は微笑んだ。
「以前の俺は、風まで支配しようとしていたんだな」
そのとき、窓の外で雨が降り始めた。
以前なら、予定が狂うことに苛立っていただろう。
しかし、黒田は穏やかな顔で傘を手に取った。
「雨を止めることはできない。でも、傘を持って出かけることはできる」
佐藤が笑った。
「名言ですね、部長」
「いや、当たり前のことだよ」
黒田はドアを開けた。
「ただ、その当たり前を理解するまでに、ずいぶん高い授業料を払った」
雨に濡れた街路樹が、風に揺れていた。
人生には、予測できない出来事が無数にある。
どれほど頭が良くても。
どれほど努力しても。
どれほどお金を持っていても。
世界のすべてを思いどおりにすることはできない。
しかし、自分の次の行動を選ぶ自由は残されている。
黒田は雨空を見上げ、小さく笑った。
「すべてを支配しなくても、人生は前に進めるんだな」
そして、ゆっくり歩き始めた。
物語から学ぶ「コントロール幻想」
コントロール幻想(Illusion of Control)は、心理学者エレン・ランガーが1975年に研究した現象として知られています。偶然に左右される結果についても、自分の選択や行動が実際以上の影響力を持つと感じてしまう認知バイアスです。
場面コントロール幻想現実的な考え方
投資自分の分析なら必ず勝てる分析しても予測は外れる
仕事計画どおりにすべて進む予期せぬ問題に備える
子育て親が子どもの将来を決められる子どもの意思を尊重する
人間関係相手の気持ちを変えられる自分の言動に責任を持つ
人生努力すれば必ず成功する努力は成功確率を高めるが保証しない
最も大切な教訓
「自分で変えられることには全力を尽くす。自分で変えられないことには、柔軟に対応する。」
コントロール幻想から抜け出すことは、努力を諦めることではありません。
努力する場所を、正しく選べるようになることなのです。




