『鳩のステップ、あるいは雨乞いの傘』迷信行動
『鳩のステップ、あるいは雨乞いの傘』
十一月の雨は、冷たい銀の針のようにアスファルトを刺していた。
駅前商店街のアーケードの切れ目、錆びたトタン屋根の下で、古賀は折りたたみ傘を握りしめたまま、じっと足元を見つめていた。
「おい、古賀。何やってんだよ、早く行くぞ。取引先のアポまであと十五分だぞ」
同僚の佐伯が、濡れたビニール傘をバサバサと振って水滴を散らしながら振り返る。
古賀は動かない。右足の革靴を地面から三センチほど浮かせ、まるで目に見えない地雷でも探るように慎重につま先を揺らしている。
「待ってくれ、佐伯。……さっき、左足から水たまりを跨ごうとした」
「は? 跨げばいいだろ、水たまりくらい」
「駄目なんだよ。今日は朝から、奇数歩で信号を渡りきったし、駅の改札も右側のSuicaリーダーを右手の指先で二回タップして通過したんだ。ここで偶数の左足から泥水を跨いだら……今日の商談、絶対に競合の帝都商事に横取りされる」
佐伯が深い溜め息をつき、天を仰いだ。商店街の肉屋から漂うコロッケの油の匂いと、雨に濡れたコンクリートの埃っぽい匂いが混ざり合っている。
「また始まったよ、お前のその『謎ルール』。いい加減にしろって。先週のプレゼンだって、お前が『勝負ネクタイの赤』を締めて、朝の自販機で当たりのルーレットが出たからって安心しきってたら、思いっきり競合に負けただろ!」
「あれは途中で黒猫が車の前を横切ったから相殺されたんだ! データの誤差だよ!」
「誤差って言うな! それを世間じゃただのこじつけ、専門用語で『認知バイアス』って呼ぶんだよ!」
佐伯は苛立たしげに古賀の腕を引っ張った。古賀はやむを得ず、不自然に大股で右足をぐんと伸ばし、水たまりをバチャリと飛び越えた。泥水が跳ねてスラックスの裾を汚す。
「ああああっ! 裾が汚れた! 最悪だ、これは契約書の金額にケチがつく前兆だ……!」
「うるさい! 歩け!」
二人は土砂降りのオフィス街を早足で駆け抜けた。
ビル街のガラス窓には、鈍色の空と、必死の形相で走る二人のくたびれたスーツ姿が歪んで映っている。
三十代半ばの中堅営業マン。上がらない給料、厳しくなるノルマ、AIの導入でいつ不要になるか分からないという見えない恐怖。
佐伯には分かっていた。古賀が昔からこんな奇行を繰り返していたわけではない。三年前、大きな案件で理不尽な失注をして以来、彼は目に見えない「因果関係の亡霊」に怯えるようになったのだ。
客先のロビーに滑り込み、受付を済ませてエレベーターに乗る。
古賀は鏡の前で必死にネクタイを直しながら、ブツブツと念仏のように呟いていた。
「時計の針は十二を指していた。エレベーターは『8』階行き。末広がりだ、よし、悪くない……」
「なあ、古賀」
佐伯は鏡越しに同僚の青白い顔を見つめた。
「心理学の実験でさ、『スキナー箱の鳩』って話、知ってるか?」
「……なんだよ、鳩って」
「箱の中に閉じ込めた鳩にさ、規則性もなく、完全にランダムなタイミングでエサをやるんだよ。機械が勝手に気まぐれでエサをポロッと落とすだけだ。なのに鳩はどうなると思う?」
「どうなるんだよ」
「エサが落ちてきた瞬間に、たまたま自分がやっていた動作――例えば首を左に振っていたとか、右回りにくるくる回っていたとか、羽をバタつかせていたとか――それを『これをやったからエサが出たんだ!』って信じ込んじまうんだよ。そして、エサが欲しい一心で、箱の隅で必死に首を振り続けたり、同じ場所をぐるぐる回り続けたりする。……お前、いま完全にその鳩だよ」
チーン、と澄んだ電子音が鳴り、八階の扉が開いた。
古賀の顔が強張る。
「……鳩で結構だよ。結果が出るなら、俺は一生くるくる回ってやるさ」
応接室に通され、出された緑茶には手をつけず、二人はプレゼンの資料を広げた。
やがて現れたのは、取引先の鬼部長として名高い鷲尾だった。銀縁眼鏡の奥の眼光は剃刀のように鋭く、挨拶の握手すら形式的に済ませると、すぐに書類へ視線を落とした。
「で? 前回の提案から、どこが変わったのかね。帝都商事さんは我が社の製造ラインに合わせた完全なコスト削減プランを提示してきたが」
息の詰まるような沈黙。
佐伯が口を開きかけたすきに、古賀が身を乗り出した。
「鷲尾部長、コスト面での優位性は確かにあちらが上かもしれません。ですが、我が社のシステムは、現場の作業員の方々が最もミスを起こしやすい『切り替え作業』の動線を三割カットできます」
古賀の語り口は、さっきまでの怯えた男とは思えないほど明瞭だった。
徹夜で現場のヒアリングを重ね、泥臭く集めたデータ。作業員たちの手の動き、視線の迷い、休憩室の愚痴まで拾い上げて作った、魂の入った提案書。
鷲尾の眉が、わずかに動いた。
「……ほう。現場の動線、か」
「はい。机上の計算では見えないロスを潰すことこそが、長期的な利益につながります」
鷲尾はページをめくる手を止め、じっと古賀の目を見た。
張り詰めた空気。古賀の額から、一筋の汗がツーと流れる。
(頼む……朝の改札、右手の二回タップ……八階のエレベーター……効いてくれ……!)
古賀は心の中で、必死に祈りの呪文を唱えていた。
その時だった。
鷲尾の手元が狂い、資料の上に置かれていた高級な黒漆の万年筆が、コロコロと音を立ててテーブルの端へ転がった。
「あ」と佐伯が息を呑む。
落下すれば、繊細なペン先が潰れる。
その瞬間、古賀の身体が勝手に動いた。
考えるよりも早く、右手を伸ばし、落ちる寸前の万年筆を空中でパシッと掴み取ったのだ。
奇跡的な反射神経だった。
「……失礼いたしました」
古賀は息を整え、両手で丁寧に万年筆を鷲尾の前に戻した。
鷲尾はぽかんと自分の手と、戻された万年筆を見つめ――やがて、低く笑い出した。
「くくっ……見事な反射神経だな、古賀君」
「恐れ入ります」
「実はね、この万年筆、亡くなった先代の社長から就任祝いにいただいた形見でね。今日、これを持ってくると商談がうまくいくという、私の験担ぎなんだよ」
鷲尾は眼鏡を外し、目元を緩めた。
「君の提案、現場への敬意が伝わってきたよ。帝都商事のペーパープランより、ずっと血が通っている。……採用の方向で、役員会に上げさせてもらうよ」
「……! あ、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる古賀と佐伯。
応接室を出て、エレベーターを降り、エントランスを抜けるまで、古賀は夢の中にいるようだった。
夕暮れ時。雨はすっかり上がり、雲の切れ間からオレンジ色の柔らかな夕日が、濡れた街路樹を黄金色に縁取っていた。澄んだ冷たい空気が、火照った二人の頬を撫でる。
「やったな、古賀! 大金星だぞ!」
佐伯が古賀の肩をバシバシと力任せに叩いた。
「ほら見ろ! お前が現場に通い詰めて作った資料が、鷲尾部長の心を動かしたんだ! 努力が実を結んだんだよ!」
古賀は夕空を見上げ、呆然と呟いた。
「……万年筆を、右手でキャッチした」
「……は?」
「落ちてきた万年筆を、俺は右手の、親指と人差し指と中指の三本でキャッチしたんだ。しかも、鷲尾部長自身も験担ぎをしていた……」
古賀の目が、カッと見開かれた。
「佐伯! やっぱり世界は法則で満ちているんだ! 三本の指だ! そして右足から跨いだ水たまり! すべてが今日の勝利へと収束していたんだよ!」
「お前……! 話を聞いてたのか!? 部長は現場への敬意がどうとか言ってただろ!」
「いや、それもこれも、運気の流れを掴んでいたからこそ言葉が届いたんだ! 決めたぞ、次の商談の前は、必ず右手の三本指でペンを拾う練習をしてから挑む!」
「やめろ! 余計なルーティンを増やすな! お前の人生、条件付けで身動きが取れなくなるぞ!」
夕暮れの歩道で、二人のサラリーマンが言い争いながら歩いていく。
佐伯が怒鳴り、古賀が真顔で手帳に「万年筆・右手・三本指」とメモを取る。
ふと、歩道の片隅の植え込みで、丸々と太った一羽の鳩が、首を前後に小刻みに振りながら落ちていたパンくずを啄んでいた。
鳩は誰の指図を受けるでもなく、ただ風の吹くままに羽を震わせ、夕暮れの空へとパサパサと羽ばたいていく。
「おい、佐伯! 見ろ、鳩が右斜め上に飛んだ! 明日の日経平均は上がるぞ!」
「知るかバカ野郎! 早く祝杯のビール奢れ!」
二人の長い影が、茜色に染まるアスファルトの上で、滑稽に伸びたり縮んだりしながら駅の改札へと吸い込まれていった。




