『心のシャッターが落ちる隙間に』
土砂降りの雨が、神保町の古い雑居ビルの窓ガラスを激しく叩きつけていた。
薄暗い研究室の中、壁一面に積まれた認知心理学の洋書と、かすかに唸りを上げる冷却ファンの音だけが満ちている。デスクの中央には、古びたCRTモニターの青白い光。その前で、大学院生の志保は眉間に深い溝を刻み、画面を見つめ続けていた。
「もう一度、タイムチャートを見直させてくれ。おかしい……ターゲット1を認識した直後、被験者の正答率がここまで垂直落下するものなのか?」
隣のパイプ椅子に腰掛けていた指導教官の佐伯が、ぬるくなった缶コーヒーのプルタブをパキリと鳴らし、ゆっくりと口をつけた。白髪の混じる無精髭に覆われた口元が、わずかに歪む。
「志保。それが『注意の瞬き(アテンショナル・ブリンク)』だ。人間の脳は、お前が思っているほど万能なスーパーコンピュータじゃないのさ」
「でも先生、たったの数百ミリ秒ですよ? 画面上にアルファベットを十数ミリ秒刻みで次々にフラッシュさせる。最初の赤い文字――ターゲット1を捉えたあと、200から500ミリ秒の間に現れる二つ目の緑の文字――ターゲット2だけが、まるで最初から存在しなかったかのように意識から消え去るなんて……」
志保は震える指先でマウスを握り直した。
「目の網膜には、物理的な光として確実に像が結ばれているんです。視覚野だって反応しているはずです。なのに、どうして被験者は『緑の文字なんて見えなかった』と断言するんですか? なぜ、意識にのぼらないんですか!」
「脳の処理リソースが底をつくからだ」
佐伯は低く、どこか冷ややかな響きを含んだ声で言った。煙草のヤニで黄ばんだ指先が、モニターの画面をコツコツと叩く。
「最初の獲物を捕らえ、それを『意味のある情報』として長期記憶へ固定しようと意識を総動員しているその瞬間――脳のシャッターは完全に落ちている。肉体の目は見開かれていても、心の目は激しく瞬いているんだよ。だから、その隙間に滑り込んできた二つ目の真実は、網膜を素通りして虚無へ消える」
志保の胸の奥で、鉛のような重みが鈍く疼いた。
「心の……瞬き……」
「そうだ。そして怖いのはな、人間は自分が『見落とした』という事実そのものを認識できないことだ。『何もなかった』と信じ込む。認知バイアスという名の、脳が仕掛けた完璧な自己防衛の檻だな」
佐伯の乾いた言葉が、志保の古傷を容赦なく抉り出す。
――あの日も、今日と同じような土砂降りの雨だった。
三年前の夏の夕暮れ。志保は助手席に座っていた。運転していたのは、彼女の婚約者であり、将来を嘱望された神経科学者だった透。
結婚式を翌月に控え、車内は甘やかな幸福と、これから始まる新しい生活への期待で満ちていた。ワイパーが狂ったようにガラスを拭い、激しい雨音が屋根を叩いていた。
『志保、見てごらん。あそこの交差点の角、君が好きそうなアンティークのカフェができてる』
透が前方を指差した。その声に引きずられるように、二人は視界の端の暖色系の看板に視線を向けた。
『わあ、本当だ。来週、一緒に行ってみようよ』
『ああ、約束しよう――』
透が微笑み、志保が笑い返した、まさにその直後だった。
交差点の真ん中で立ち往生していた、無灯火の大型トラック。
透はブレーキを踏むことすらできなかった。衝突する最後の瞬間まで、彼の瞳には何一つ映っていなかったかのように、車輪は容赦なく鉄の塊へと突っ込んでいったのだ。
警察の現場検証で、捜査官は淡々と言い放った。
『ブレーキ痕がありません。携帯を見ていたわけでもない。なぜあれほど巨大なトラックが見えなかったのか……脇見運転としても不自然です』
志保は生き残り、透だけが逝った。
「私が……」
志保の唇から、掠れた声がこぼれ落ちた。唇が激しく震え、爪が手のひらに深く食い込む。
「私が、あの時『本当だ』なんて答えなければ。彼がカフェの看板に意識を奪われた直後の、あのコンマ数秒……彼の脳が『注意の瞬き』を起こしていたんだとしたら……。私が彼の意識のシャッターを下ろさせてしまったんじゃないんですか?」
「志保」
「彼を殺したのは、雨でも、トラックでもない! 私の不用意な一言と、脳の欠陥……認知バイアスじゃないんですか! 答えてください、先生!」
叫び声が、狭い研究室に反響した。
モニターの青い光が、志保の頬を伝う大粒の涙を冷たく照らし出す。三年間、彼女はこの暗い部屋で、何千人分もの視覚刺激データを処理し続けてきた。透がなぜ死ななければならなかったのか。なぜ人間は、目の前にあるはずの破滅を見落としてしまうのか。その答えを、理性の皮を被った神経科学の論理で塗り固め、自分自身を免罪したかった。
だが、実験結果が出れば出るほど、残酷な真実だけが浮き彫りになる。
脳は、見たいものだけを見る。
そして、見落としたものにすら気づかないまま、世界を完全に理解したと錯覚して死んでいくのだ。
佐伯は深く息を吐き、静かにパイプ椅子から立ち上がった。彼は志保のデスクの横へ歩み寄ると、乱雑に積み上げられた論文の山から一枚の写真を抜き取った。
それは、大学のキャンパスで満開の桜の下、透と志保、そして佐伯が三人で肩を組んで笑っている古い写真だった。
「透が生前、最後に私に話していたことを覚えているか」
佐伯の濁った瞳が、真っ直ぐに志保を射抜いた。
「……いえ。聞いていません」
「あいつはな、お前のその、研究に対する純粋すぎるほどの執着を誰よりも愛していた。だが、同時にひどく恐れてもいたんだよ。『志保は一度何かに囚われると、周囲のすべてを視界から消してしまう。まるで、ずっと注意の瞬きの中に生きているみたいだ』とな」
志保の息が止まった。
「お前は三年間、何をターゲット1にして生きてきた?」
佐伯の声は、父親のように低く、優しかった。
「透の死因だ。あの事故の真実だ。それだけを凝視し、それだけを捉えようと意識のリソースを限界まで注ぎ込み続けてきた。その結果、お前の脳は何を見落としてきたと思う?」
「私が……見落としてきたもの……?」
「お前自身の人生だよ、志保」
窓の外で、激しい雷鳴が轟いた。閃光が部屋を一瞬だけ白く焼き、すぐに深い闇が戻る。
「お前はあいつの死という最初の刺激に魂を奪われ、その後に続くはずだった自分自身の生きる時間を、すべて『無かったもの』として消し去ってきたんだ。見落としたのではない。お前の心が、自ら瞬きをして見ないように閉ざしてきたんだよ」
「違う……私はただ、科学者として……!」
「科学者なら、現実を直視しろ!」
佐伯が一喝した。机の上の書類がバサリと揺れた。
「人間の脳が不完全なのは、欠陥ではない。限られたエネルギーで、この過酷な世界を生き抜くための適応の結果だ。すべてを知覚し、すべての危機に同時に怯えていたら、人間は一歩も前へ歩けなくなる。だから脳は瞬きをし、不要なものを削ぎ落とすんだ。透の事故は悲劇だ。だがそれは、誰の罪でもない。人間という生き物が背負った、哀しい構造の限界だったんだよ」
志保は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
「嫌……嫌よ……。そんなの、あまりにも救いがないじゃない……! 彼はあんなに優しくて、あんなに賢くて……なのに、たったコンマ何秒の脳の気まぐれで消えてしまったなんて……認められるわけがない!」
嗚咽が喉を塞いだ。床に膝をつき、子どものように肩を震わせて泣く志保の頭上に、佐伯の静かな声が降り注いだ。
「認めなくていい。だが、知ることはできるはずだ」
佐伯はしゃがみ込み、志保の震える肩に手を置いた。
「注意の瞬きには、一つの抜け道があるのを知っているだろう」
志保は涙で濡れた顔を上げた。
「……抜け道?」
「ターゲット2に、強い感情を呼び起こす意味を持たせることだ。単なる記号や無機質なアルファベットなら見落とされるが、それが愛する者の名前や、自らの生存に関わる言葉であれば――脳は瞬きの闇を突き破って、その像を意識へと引きずり上げる」
佐伯は写真を志保の膝の上に置いた。
「お前の目の前にある未来は、無意味な記号じゃない。透が愛し、お前に託した時間そのものだ。目を凝らせ、志保。お前の意志で、心の瞬きを終わらせるんだ」
雨音は、いつの間にか小降りになっていた。
雲の切れ間から、夕暮れの淡い光が神保町の路地に差し込み始めている。
濡れたアスファルトが、鈍い黄金色に反射していた。
志保は震える手で写真を抱きしめた。写真の中の透は、あの日と同じ穏やかな瞳で、彼女を見つめ返していた。
「……先生」
「なんだ」
「もう一度……タスクを走らせます」
志保は立ち上がり、袖で乱暴に涙を拭った。椅子の軋む音が、静寂を取り戻した部屋に小さく響く。
「今度は、ターゲット2の刺激に、意味のある単語を組み込みます。人間の意識が、偏見と忘却の闇にどこまで抗えるのか……確かめたいんです」
佐伯は口元に微かな笑みを浮かべ、再び冷えたコーヒーを口にした。
「いいだろう。付き合うさ。夜はまだ、始まったばかりだ」
モニターに、黒い背景と十字の注視点が浮かび上がる。
志保は深く息を吸い込み、キーボードに指を置いた。
暗闇の中で、青い光が瞬いていた。
その光はもう、過去の幻影ではなく、彼女自身が選び取る未来の形を照らし出していた。




