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『見えなかった三秒』 ――認知バイアス「注意の瞬き」

『見えなかった三秒』

――認知バイアス「注意の瞬き」


 雨は、街の輪郭を溶かしていた。


 午後六時四十二分。


 駅前のスクランブル交差点には、傘の花が咲き乱れている。赤、黒、透明。濡れたアスファルトに信号の光が滲み、車のヘッドライトが白い筋となって流れていく。


「ねえ、お父さん。人って、見ているものを全部覚えてるの?」


 小学五年生の娘、美咲が訊いた。


「どうした、急に」


「今日、理科の先生が言ってたの。目に映っていても、脳が見てないことがあるって」


「へえ。面白いな」


「お父さんは?」


「ん?」


「見逃したこと、ある?」


 私は笑った。


「あるさ。仕事でも、家でも。お母さんが髪を切ったことに気づかなかったり」


「それは怒られるやつ」


「ものすごくな」


 美咲が笑う。


 その笑顔を見たのが、最後だった。


 いや。


 正確には、最後だと思い込んでいた。


 信号が青になった。


「お父さん、あれ!」


 美咲が突然、前方を指さした。


 横断歩道の向こうで、赤いコートの女が倒れた。


 乾いた悲鳴。


 傘が落ちる音。


「大丈夫ですか!」


 私は駆け出した。


 女は胸を押さえ、苦しそうに息をしている。


「救急車! 誰か救急車を!」


「呼んでます!」


「意識はありますか? 聞こえますか!」


 私は女の肩に触れた。


 その瞬間だった。


「お父さん!」


 美咲の声がした。


 私は振り返らなかった。


 目の前の女が、突然、私の手首を掴んだからだ。


「見て……」


「え?」


「ちゃんと……見て……」


 女の瞳が大きく開いた。


 その数秒後、背後で悲鳴が上がった。


「危ない!」


 鈍い衝突音。


 急ブレーキ。


 振り返ったとき、美咲はいなかった。


     *


「娘さんが消えた?」


 刑事の佐伯は、眉をひそめた。


 警察署の取調室。蛍光灯の白い光が、冷えたコーヒーの表面に映っている。


「そうです。ほんの数秒です。振り返ったら、もう……」


「車にはねられたわけでは?」


「違います。事故に遭ったのは自転車の男性でした」


「では、その騒ぎに紛れて?」


「わかりません!」


 思わず机を叩いた。


「すみません……でも、娘は私のすぐ後ろにいたんです」


「最後に声を聞いたのは?」


「女の人を助けているときです。『お父さん』って」


「その後は?」


「だから、その後は……」


 言葉が詰まった。


 佐伯は静かに訊いた。


「本当に、何も見ていませんか?」


「見ていません」


「一瞬も?」


「見ていないと言ってるでしょう!」


 佐伯は黙ってノートを閉じた。


「わかりました。防犯カメラを確認しましょう」


     *


 翌朝、私は警察署に呼ばれた。


 モニターには、あの交差点が映っていた。


「こちらをご覧ください」


 佐伯が再生ボタンを押す。


 雨。


 人混み。


 赤いコートの女。


 私は画面の中で駆け寄り、しゃがみ込む。


「ここです」


 佐伯が映像を止めた。


「娘さんが、あなたの後ろにいます」


「ああ……美咲……」


 画面の端に、黄色いレインコートが見えた。


 小さな手。


 白いスニーカー。


 胸が締めつけられる。


「続けます」


 映像が動く。


 女が私の手首を掴む。


 その直後。


 黄色いレインコートの横に、黒い傘の人物が現れた。


「……誰ですか、これ」


「まだ特定できていません」


 人物は美咲に何か話しかけていた。


 美咲が顔を上げる。


 そして。


 その人物の手を握った。


「待ってください!」


 私は立ち上がった。


「美咲は知らない人についていく子じゃありません!」


「落ち着いてください」


「どうして止めなかったんだ、俺は!」


 画面の中の私は、ずっと赤いコートの女を見ていた。


 娘が手を引かれ、歩き始める。


 それでも私は振り返らない。


「こんなの……こんなの、見えるはずでしょう!」


 佐伯は答えなかった。


 代わりに、隣に座っていた心理学者の女性が口を開いた。


「注意の瞬き、という現象をご存じですか?」


「……何ですか、それ」


「人間の注意には限界があります。重要な刺激を認識した直後、短い時間だけ、次の刺激を認識しにくくなることがあるんです」


「つまり?」


「目の前で何かが起きていても、脳が処理できないことがある」


「じゃあ、私は……」


「ただし、今回のような数秒間の見落としは、厳密には注意の瞬きだけでは説明できません。注意が一つの出来事に奪われることや、変化の見落としも関係している可能性があります」


 私は画面を見た。


 赤いコート。


 倒れた女。


 黒い傘。


 黄色いレインコート。


「……もう一度、見せてください」


     *


 三十七回目の再生だった。


「止めて!」


 佐伯が映像を止める。


「どうしました?」


「この女……」


「赤いコートの女性ですか?」


「そうです。倒れた直後、何をしています?」


 画面を拡大する。


 女は苦しそうに胸を押さえている。


 しかし。


 私が駆け寄る直前、ほんの一瞬だけ。


 女は横断歩道の向こうを見ていた。


 そして、頷いた。


「……合図だ」


「何ですって?」


「この女、誰かに合図してる!」


 佐伯の顔つきが変わった。


 映像を巻き戻す。


 黒い傘の人物が現れる。


 女が頷く。


 私はしゃがむ。


 女が手首を掴む。


 美咲が連れていかれる。


 あまりにも滑らかな動きだった。


「偶然じゃない……」


 私は呟いた。


「最初から、私の注意を奪うつもりだったんだ」


 心理学者が静かに言った。


「人は、何かを見た瞬間、次に何が起きるか予測します。倒れた人を見れば、助けなければと思う。さらに、自分が正しい行動をしているという確信が、ほかの可能性への注意を弱めることもあります」


「私の善意を……利用した?」


「その可能性があります」


 私は拳を握った。


 爪が掌に食い込む。


「絶対に見つける」


 喉の奥から、掠れた声が漏れた。


「今度こそ、見逃さない」


     *


 三日後。


 赤いコートの女が見つかった。


 名前は三浦玲子。四十二歳。


 取り調べで、彼女は最初、何も話さなかった。


 だが、佐伯が防犯カメラの映像を見せると、唇が震え始めた。


「……私は、頼まれただけです」


「誰に?」


「男の人に。交差点で倒れるふりをすれば、十万円払うって」


「娘はどこだ!」


 私は隣室のモニターに向かって叫んだ。


 声は届かない。


 女は泣きながら首を振った。


「知らないんです。本当に……」


「嘘だ!」


 佐伯が女に写真を見せた。


「この人物ですか?」


 女の表情が凍った。


「……はい」


 写真に写っていたのは、黒い傘を持つ男だった。


 そして、その顔を見た瞬間。


 私の呼吸が止まった。


「……兄さん?」


     *


 兄の浩一とは、七年間会っていなかった。


 父の遺産を巡る争い。


 罵声。


 絶縁。


 最後に兄が言った言葉を、今でも覚えている。


『お前はいつも、自分が正しいと思っている』


 私はずっと、兄を悪人だと思っていた。


 だから、写真を見た瞬間、すべてが繋がった気がした。


 復讐だ。


 兄が美咲をさらった。


 間違いない。


 警察は兄の居場所を突き止めた。


 郊外の古い一軒家。


 私は佐伯とともに向かった。


 玄関の扉が開く。


「……浩一!」


 兄は驚いた顔をした。


「何だよ、突然」


「美咲を返せ!」


「……は?」


「とぼけるな!」


 私は兄の胸ぐらを掴んだ。


「お前が連れていったんだろう!」


「何の話だ!」


「黒い傘! 交差点! 全部わかってるんだ!」


 兄はしばらく呆然としていた。


 そして、奥の部屋を振り返った。


「……美咲」


 小さな足音がした。


「お父さん?」


 黄色いレインコートを抱えた美咲が、廊下から顔を出した。


 私は崩れ落ちた。


「美咲……!」


「お父さん、どうして泣いてるの?」


 抱きしめた。


 何度も名前を呼んだ。


 美咲の髪から、懐かしいシャンプーの香りがした。


「ごめん……ごめんな……」


「痛いよ、お父さん」


「ごめん……」


 兄が低い声で言った。


「美咲が電話してきたんだ。お前に会いたくない、しばらく泊めてほしいって」


「……え?」


「駅で待ち合わせた。お前が誰かを助けている間に、俺のところに来たんだ」


「そんな……」


 私は美咲を見た。


「どうして?」


 美咲は俯いた。


「だって……」


 小さな指が、レインコートを握りしめる。


「お父さん、いつも見てないんだもん」


 胸が冷たくなった。


「何を……?」


「私のこと」


 雨が窓を叩いた。


「テストで百点取っても、スマホ見てる。学校で嫌なことがあっても、『大丈夫だろ』って言う。私が泣いてても、『忙しい』って……」


「美咲……」


「だから、おじちゃんに相談したの。お父さんに、ちゃんと話を聞いてほしいって」


 兄は苦しそうに言った。


「連絡を絶ったのは間違いだった。だが、俺は赤いコートの女なんて知らない。交差点で騒ぎがあったことも、後で知った」


 私は言葉を失った。


 警察の調べで、兄が女に金を払った証拠は見つからなかった。


 女が見せられた写真も、顔が似た別人だった可能性が浮かんだ。


 私は、兄が犯人だという結論に飛びついていた。


 嫌いな相手だから。


 そうに違いないと、信じたかったから。


     *


 帰り道。


 雨は上がっていた。


 美咲が私の手を握る。


「お父さん」


「ん?」


「私が最初に訊いたこと、覚えてる?」


「……人は、見ているものを全部覚えているのか、だろ?」


「うん」


「覚えてるよ」


「じゃあ、もう一つ」


「何だ?」


「今、私の顔、ちゃんと見えてる?」


 私は立ち止まった。


 街灯の下。


 濡れた睫毛。


 少し赤くなった目。


 唇を噛みしめる、小さな娘。


 私はしゃがみ込んだ。


「見えてる」


「本当に?」


「ああ」


「じゃあ、私、今どんな顔?」


 私はしばらく考えた。


「……怒ってる」


「うん」


「悲しそうでもある」


「うん」


「それから……」


 美咲の瞳が揺れた。


「少し、安心してる」


 娘は泣きながら笑った。


「……正解」


 私はその顔を、忘れまいと思った。


 人間の脳は、すべてを見ることができない。


 重要だと思ったものに注意を奪われれば、その直後の何かを見落とすことがある。


 そして、信じたいものばかり見ていれば、目の前の真実さえ見失う。


 だが、注意の限界を知ることと、人の心に向き合うことは、きっと別の話だ。


「美咲」


「なあに?」


「今日、学校で何があった?」


 娘は目を丸くした。


 それから、私の手を強く握った。


「……長い話になるよ?」


「いいよ」


「すっごく長いよ?」


「全部聞く」


「途中でスマホ見ない?」


「見ない」


「絶対?」


「ああ。約束する」


 美咲は笑った。


 そして、ゆっくり話し始めた。


 私は歩幅を合わせた。


 今度は、急がなかった。


 交差点の信号が青に変わる。


 人々が一斉に歩き出す。


 その中で、私は娘の声を聞いていた。


 世界のすべては見えない。


 それでも。


 大切な人が何を伝えようとしているのか、見ようとすることはできる。


 美咲の小さな手は、温かかった。





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― 新着の感想 ―
ホラーかなと思って読んでいたら、ほのぼの系? だったね。 話の展開が早い。
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