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『幸運の赤い靴下』――迷信をやめた日、母が笑った

『幸運の赤い靴下』――迷信をやめた日、母が笑った


 雨の朝だった。


 窓ガラスを細い雨粒が伝い、向かいの家の柿の葉が、濡れて赤く光っている。


「お母さん! 私の赤い靴下、知らない?」


 高校三年生の真帆は、洗濯籠をひっくり返した。


「また赤い靴下?」


 台所から母の声が飛んでくる。


「今日、模試なの!」


「だから?」


「赤い靴下を履かないと、点数が下がるの!」


 母の千恵は、味噌汁の鍋をかき混ぜる手を止めた。


「……それ、靴下が試験を受けるの?」


「違うってば!」


「じゃあ、真帆が受けるんでしょう」


「そうだけど!」


 真帆は床に膝をつき、洗濯物をかき分けた。


 白。紺。灰色。


 赤がない。


「もう! 昨日ちゃんと洗濯機に入れたのに!」


「入れたなら、まだ乾いてないんじゃない?」


「えっ?」


 浴室乾燥機の下に、赤い靴下がぶら下がっていた。


 片方だけ。


「……うそ」


「片方は洗濯機の裏かしらね」


「終わった……」


「まだ始まってもいないわよ」


 真帆は濡れた靴下を握りしめた。


「お母さんには分からないよ。これを履いた日は、いつもいい点数が取れたんだから」


「いつも?」


「……だいたい」


「悪かった日は?」


「その日は、靴下の左右を逆に履いたの」


 千恵はしばらく娘を見つめた。


「真帆」


「何?」


「靴下にも左右があるの?」


「今はそういう話じゃない!」


 *


 赤い靴下の始まりは、半年前だった。


 春の中間試験。


 寝坊した真帆は、慌てて引き出しから靴下を取り出した。


 それが、祖母にもらった赤い靴下だった。


 その日の数学は九十二点。


 それまで七十点台だった真帆は、答案を見て叫んだ。


「赤い靴下、すごい!」


 友人の梨沙は呆れた。


「いや、真帆。試験前に毎日三時間勉強してたじゃん」


「でも、赤い靴下の日に九十二点だったんだよ!」


「勉強したからじゃない?」


「梨沙は夢がないなあ」


 それから真帆は、大事な試験の日には必ず赤い靴下を履くようになった。


 模試。英語の小テスト。漢字検定。


 いい結果が出るたび、靴下のおかげだと思った。


 悪い結果が出ると、別の理由を探した。


 靴下を洗いすぎた。


 朝、右足から履かなかった。


 靴下を履いたあとで、黒猫を見た。


 そして、いつの間にか赤い靴下がなければ、試験会場に向かうことさえ怖くなっていた。


 *


「真帆、早くしないと電車に遅れるわよ」


「……行かない」


 千恵は振り返った。


「何ですって?」


「今日は行かない。赤い靴下が揃わないから」


 母は鍋の火を止めた。


「本気で言ってるの?」


「だって、失敗したらどうするの!」


「靴下がなくても、勉強したことは消えないでしょう」


「分かってるよ!」


 真帆の声が震えた。


「頭では分かってる。でも、怖いんだもん!」


 母は黙った。


「今度の模試で判定が悪かったら、志望校を変えろって先生に言われるかもしれない。みんなは成績が伸びてるのに、私だけ置いていかれたら……」


 言葉が途切れた。


 雨音が急に大きく聞こえた。


「……靴下のせいにできたら、少し楽なの」


 千恵は娘の隣にしゃがんだ。


「そうだったの」


「ごめん。馬鹿みたいだよね」


「馬鹿だとは思わないわ」


 母は赤い靴下を手に取った。


「お母さんもね、昔は試験の前に必ず同じ鉛筆を使ってた」


「え?」


「その鉛筆を使った日に合格したから、次も、その次も。短くなって持ちにくいのに、手放せなかった」


「お母さんも?」


「ええ。人って、不安なときほど、何かに頼りたくなるのよ」


 真帆は母を見た。


「じゃあ、赤い靴下を履いてもいい?」


「もちろん。でも、履けない日にも試験を受けられるようになってほしい」


「……どうすればいいの?」


「今日は紺色を履いて行ってみたら?」


「それで点数が悪かったら?」


「そのときは答案を見て、間違えたところを勉強し直す」


「……普通すぎる」


「普通のことって、案外難しいのよ」


 千恵は笑った。


「それに、今日の模試で人生が全部決まるわけじゃないでしょう」


 真帆は、しばらく紺色の靴下を見つめた。


 それから、ゆっくり足を通した。


「……なんか、落ち着かない」


「でしょうね」


「お母さん、応援して」


「もちろん。真帆、頑張っておいで」


「もっと!」


「数学の神様、どうか真帆に微笑んでください!」


「それも迷信じゃん!」


 二人は笑った。


 *


 模試の帰り道。


 雨は上がり、濡れた歩道に夕日が映っていた。


 真帆は駅前のベンチに腰掛け、深く息を吐いた。


「……終わった」


 隣に座った梨沙が、紙パックのミルクティーを差し出す。


「どうだった?」


「数学、最後の問題が解けなかった」


「私も」


「英語は、いつもよりできた気がする」


「いいじゃん」


「でも、赤い靴下じゃなかったから……」


 真帆は言いかけて、口を閉じた。


 梨沙が笑った。


「まだ靴下のこと考えてるの?」


「……うん」


「真帆さ。赤い靴下を履いて点数がよかった日だけ、よく覚えてない?」


「え?」


「前に赤い靴下で英語の小テスト受けて、六十二点だったじゃん」


「……あれは寝不足だったから」


「ほら」


 梨沙はストローをくわえた。


「いい結果は靴下のおかげ。悪い結果は別のせい。それって、ちょっと都合よくない?」


 真帆は顔をしかめた。


「梨沙、厳しい」


「親友だからね」


「でも……そうかも」


 梨沙は夕空を見上げた。


「うちのお兄ちゃん、大学で心理学を勉強してるんだけど、そういうのを『確証バイアス』っていうらしいよ」


「かくしょう?」


「自分の考えに合う出来事ばっかり集めちゃうこと」


「……赤い靴下が効いた日ばっかり覚えてた、ってこと?」


「そうそう」


 真帆は足元を見た。


 紺色の靴下。


 特別な模様も、幸運のおまじないもない。


「でも、今日、試験を受けられた」


「うん」


「赤い靴下がなくても」


「そうだね」


 真帆は小さく笑った。


「……なんだ。私、できるじゃん」


 *


 一週間後、模試の結果が返ってきた。


 数学、八十八点。


 英語、九十一点。


 志望校判定は、前回より一段階上がっていた。


「お母さーん!」


 真帆は玄関を開けるなり叫んだ。


「見て! 見て!」


 千恵は買い物袋を抱えたまま振り返った。


「どうしたの?」


「模試! 判定が上がった!」


「まあ!」


「紺色の靴下だったのに!」


 母は笑った。


「じゃあ、今度から紺色が幸運の靴下ね」


「……あっ」


 真帆は固まった。


 千恵がにやりとした。


「どうする?」


「……危ないところだった」


「ふふふ」


「私、また靴下のおかげにするところだった!」


 真帆は答案を胸に抱いた。


「これ、私が勉強した結果だよね」


「そうよ」


「赤い靴下でも、紺色でも」


「そう」


「……頑張ったの、私だよね」


 千恵は娘の頭を撫でた。


「ええ。よく頑張ったわ」


 その言葉を聞いた瞬間、真帆の目から涙がこぼれた。


「……よかった」


「真帆?」


「ずっと怖かったの。頑張っても駄目だったら、自分には才能がないって分かっちゃう気がして」


 千恵は娘を抱きしめた。


「失敗したって、才能がないと決まるわけじゃないわ」


「……うん」


「靴下に頼りたくなる日があってもいい。でも、自分の頑張りまで靴下にあげちゃうのは、もったいないわよ」


 真帆は涙を拭った。


「……うん!」


 *


 その夜。


 真帆は机の引き出しから、赤い靴下を取り出した。


 片方は、洗濯機の裏から無事に発見されていた。


 窓の外では、秋の虫が細い声で鳴いている。


 真帆は二枚の靴下を揃え、引き出しにしまった。


「今までありがとう」


 小さく呟く。


 赤い靴下は、何も答えない。


 当然だ。


 ただの靴下なのだから。


 それでも、少しだけ愛おしかった。


 怖い朝に、勇気をくれた気がしたことまで、嘘にする必要はない。


 真帆は机に向かい、問題集を開いた。


 明日の小テストに向けて、あと三問。


 鉛筆を握る手に、もう迷いはなかった。


 ……はずだった。


「真帆ー!」


 台所から母の声がした。


「明日、雨らしいわよ!」


「はーい!」


「傘、忘れないでね!」


「分かってる!」


 真帆は問題集を解き終え、鞄に傘を入れた。


 そして、ふと考えた。


 前に青い傘を持っていった日は、英語のテストで満点だった。


 ……もしかして。


「…………」


 真帆はゆっくり首を振った。


「いやいやいや!」


 自分で自分に突っ込んだ。


「今度は傘かい!」


 部屋に笑い声が響いた。


 雨の予報は変わらない。


 試験の結果も、まだ分からない。


 けれど明日、どんな色の靴下を履き、どんな傘を差すかは、自分で決められる。


 真帆は青い傘を鞄から取り出し、黄色い傘に替えた。


「……別に、黄色が好きだからね!」


 誰にともなく言い訳する。


 その様子を廊下から見ていた千恵が、くすりと笑った。


「真帆」


「な、何?」


「明日の朝ごはん、卵焼きでいい?」


「うん!」


「甘いのと、しょっぱいの、どっち?」


「甘いの!」


「どうして?」


「……甘い卵焼きを食べた日は、いいことがあるから」


 母娘は顔を見合わせた。


 そして、同時に吹き出した。


「また始まった!」


「だって、おいしいんだもん!」


 秋の夜は、笑い声を包み込むように静かに更けていった。


 迷信が消えたわけではない。


 ただ、真帆は少しだけ、自分の思い込みに気づけるようになった。


 それで十分だった。


 人間は、理屈だけでは生きていけない。


 けれど、理屈を知っていれば、ときどき自分の心に、優しく突っ込みを入れられる。


 幸運を運んでいたのは、赤い靴下ではない。


 赤い靴下を履いて、毎日机に向かっていた真帆自身だった。



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― 新着の感想 ―
模試かぁ、高校時代を思い出します。 3年の時はどうでも良くなった。 それでも卒業して今があります
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