『聖域の亀裂』信念の保守主義
雨脚がアスファルトを強く叩き、窓ガラスを乱反射する街灯の光が、重苦しい会議室の空気を濡らしていた。ビル十階、深夜十一時を回った開発室。
エアコンの微かな唸りと、誰かの指が貧乏揺すりで机を叩く乾いた音だけが響いている。机の中央に放り出された数冊の実験ノートと、青白い光を放つモニターに浮かぶ冷徹な折れ線グラフ。「……もう一度、最初から説明しろ」口火を切ったのは、技術顧問の佐久間だった。
六十を過ぎ、白髪の混じった眉を険しくひそめている。
その声には、疲労と、それ以上に「自分の領域を侵された」ことに対する鈍い苛立ちが混じっていた。「ですから、佐久間先生」向かい合って座る若き研究員、蓮見は、乾ききった唇を舐めた。
彼の目の下には濃い隈が張り付いている。
だが、その双眸の奥には、恐怖と興奮が入り混じった熱が宿っていた。「先週から行っている追加の追試データです。第三相の分解反応において、触媒が劣化する速度が理論値の四倍に達しています。このまま温度を上げれば、反応熱を抑えきれずに暴走する。つまり……先生が提唱された『低温安定化仮説』の前提そのものが、崩れているんです」空気が凍りついた。佐久間が三十年かけて築き上げた理論。
この新素材開発プロジェクトの根幹であり、数多の論文と特許に裏打ちされた、社内における「絶対の真理」。
それを、入社四年の小僧が「崩れている」と言い放ったのだ。「馬鹿を言うな」佐久間は低く笑った。
鼻で嗤うような、侮蔑を含んだ笑いだった。「蓮見、お前は基本的な操作をどこかで間違えているんだ。不純物の混入か? それとも試薬のロット差か? そんな初歩的なミスで得られた異常値を、鬼の首を取ったように振りかざすな」「ミスではありません! 三台の異なる分析機を使い、試薬も三つの別メーカーから取り寄せ、ブランクテストも五回重ねました! データはすべて一致しているんです!」蓮見が立ち上がり、身を乗り出す。
手元のプリントアウトを佐久間の前に叩きつけた。
紙が擦れる鋭い音が、静まり返った室内に響く。「見てください、このピークを! 先生の理論通りなら、ここは平坦にならなければならないはずだ! なのに、明確な吸熱反応のスパイクが出ている! 事実なんです、これが!」窓の外で、遠雷が轟いた。
低い地鳴りのような音が、床を微かに震わせる。佐久間は叩きつけられた紙を一瞥もしなかった。
ただ、細く尖った万年筆を指先で弄びながら、じっと蓮見を見据えている。
その瞳の奥には、氷のような頑迷さが張り巡らされていた。「仮説に合わない数値など、いくらでも出る」佐久間は静かに、だが岩のように揺るぎない声で言った。「実験系というのは生き物だ。気温、湿度、器具の洗浄度、あるいは人間の呼吸一つで揺らぐ。お前の持ってきたそれは、単なる『ノイズ』だよ。例外的なノイズだ。それを全体の傾向から除外して考えるのが、科学者としての分別というものだ」「ノイズですって……? 四回の実験すべてで再現されたこの巨大な異常値が、ただのゴミデータだと仰るんですか!?」蓮見の声が裏返る。
絶望が喉を締め付けていた。——信念の保守主義。人間は、一度信じ込んだ枠組みや先入観にしがみつき、それを覆す新たな証拠が現れても、その重要性を著しく過小評価する。
頭では知っていた心理の罠。
だが今、目の前にいる日本のトップサイエンティストが、まさにその醜悪な檻の中に自ら閉じこもっている。「先生、目を逸らさないでください!」蓮見は祈るように両手を組んだ。声が震えていた。「このプロジェクトには、来週の月曜日に最終安全審査が控えています。この触媒を使ったプラントの建設が始まってしまうんです! もし稼働後に暴走したら、現場の作業員に死者が出ます! 会社の存亡に関わる事故になる! 今ならまだ、設計を見直せば間に合います……!」「黙りなさい!」佐久間が机を両手で平手打ちした。
バン、と破裂音が炸裂する。「お前は私が間違っていると言いたいのか!? この私が! 三十年間、この国の触媒化学を牽引してきた私が、学生気分の抜けないお前の粗雑な実験一つで否定されるとでも思っているのかね!?」佐久間の顔は赤黒く紅潮し、額に青筋が浮かんでいた。
怒りの奥にあるもの——それは、自分の人生そのものが無に帰すことへの、根源的な恐怖だった。「私の理論は完璧だ。かつてドイツの学会でも満場の拍手を受けた。あの時もそうだ、異を唱える連中はいたが、最終的には私の正しさが証明された。今回も同じだ。この理論が破綻するなど、物理的にあり得んのだよ!」「過去の栄光が、目の前の物理現象をねじ曲げるとでも言うんですか!」蓮見もまた叫んでいた。
目頭が熱くなり、悔し涙が滲む。「科学は、祈りじゃない! 先生が信じたい世界を肯定するための道具じゃないんだ! 自然は、先生のプライドなんて気にしてくれませんよ!」二人の視線が空中で激しく衝突する。雨足はさらに強まり、窓を激しく打ち付けていた。
まるで部屋の中に閉じ込められた二人の狂気を嘲笑うかのように。佐久間は荒い息を吐きながら、ゆっくりと椅子に背を預けた。
そして、引き出しから一本の古い煙草を取り出そうとして、禁煙だったことを思い出したように手を止めた。「……蓮見」佐久間の声は、急に元の低く冷たいトーンに戻っていた。
それがかえって、蓮見の背筋を凍らせた。「お前の熱意は認めよう。だが、視野が狭すぎる。お前が見ているのは局所的な歪みに過ぎない。私の全体論的なモデルに組み込めば、その程度のスパイクは誤差として吸収される」「吸収などされません! 現実に発熱しているんです!」「ならば、条件を変えてやり直せ」「え……?」「そのピークが出ないように、昇温レートを半分に落とせ。あるいは、安定剤の濃度を三倍に引き上げろ。そうすれば、理論値通りの綺麗な曲線が得られるはずだ」蓮見は息を呑んだ。耳を疑った。「それは……データを改ざんしろと仰るのですか? 現実を、先生の理論に合わせて捏造しろと?」「言葉を慎め!」佐久間は冷酷な目で青年を射抜いた。「『最適化』と言っているんだ。理想的な条件下で理論通りの結果を出す。それが工学というものだ。邪魔な外乱を排除して、本来あるべき美しい姿を導き出す。何が間違っている?」本来あるべき姿。
佐久間の頭の中にある、欠点のない完璧な世界。そこには、目の前の生々しい実験結果が入る余地など最初からなかったのだ。
どんな証拠を突きつけようと、彼はそれを「例外」や「悪条件」のせいにして切り捨て、自分の信じる神話を補強する材料しか受け入れない。蓮見の全身から、すうっと力が抜けていった。激しい怒りの後に訪れたのは、底知れぬ虚無感だった。対話は、最初から成立していなかったのだ。
自分は科学者と言葉を交わしていたのではない。
自らが創り上げた偶像を崇拝する、老いた狂信者と向き合っていたのだ。「……分かりました」蓮見は静かに言った。
震えは止まっていた。その瞳から、熱が完全に消え失せていた。「お前にもようやく理解できたか。よろしい。報告書は私が手直ししておく。月曜の審査会には、私が修正したデータを提出するから、お前は余計な口を挟まずに控えていなさい」佐久間は満足げに頷き、ようやく蓮見のプリントアウトに手を伸ばすと、丸めてゴミ箱へと放り込んだ。
紙がカサリと虚しい音を立てる。「失礼します」蓮見は深く一礼し、踵を返した。背後で、佐久間が安堵の息を漏らし、万年筆を走らせる音が聞こえる。
自分の城が守られたことを確信し、満足感に浸っている老人の背中が、目に浮かぶようだった。廊下に出ると、ひやりとした冷気が蓮見の火照った頬を撫でた。薄暗い廊下を歩きながら、蓮見は白衣の内ポケットに手を差し入れた。
そこには、先ほど佐久間と交わしたすべての会話を記録した小型のICレコーダーと、生データをすべてバックアップした一本のUSBメモリが入っていた。立ち止まり、夜の闇に沈む街を見下ろす。
雨雲の切れ間から、冷たい月の光がわずかに差し込んでいた。「……見ててください、佐久間先生」蓮見は誰にともなく、小さく呟いた。「あなたの美しい理論が、現実という鉄槌に砕かれる瞬間を」月曜日の朝九時。
審査会の議長である社外取締役のメールボックスに、この生データと音声ファイルが届くようにタイマーをセットしてある。信念を守るために目を潰した者に、真実を突きつける方法は、もはや破滅しかない。激しい雷鳴が、夜空を一閃した。
青白い光が、青年の静かな横顔を冷たく照らし出していた。




