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『あの日の真実を、私は信じない』

 人は、間違ったことを信じる。


 けれど、もっと恐ろしいのは――。


 間違いだとわかっても、信じることをやめられないことだ。


     *


「お父さんは、私たちを捨てたんじゃない!」


 夕食のテーブルを、真由が拳で叩いた。


 味噌汁の表面が揺れ、箸が床に落ちた。


「何度言ったらわかるの、お母さん!」


 母の恵子は、黙って箸を拾った。


「真由。もう、その話はやめなさい」


「やめない!」


「お父さんは、私たちを置いて出ていった。それが事実よ」


「違う! これを見て!」


 真由は一通の封筒をテーブルに置いた。


 黄ばんだ紙。


 震えるような文字。


 差出人は、十五年前に家を出た父、健一だった。


『恵子へ。何度電話してもつながらない。真由に会いたい。せめて一度だけ、話をさせてほしい』


 恵子の顔が強張った。


「……どこで見つけたの」


「押し入れの奥。ほかにも二十通あった」


「勝手に人のものを見たの?」


「そんなこと、今はどうでもいいでしょ!」


 真由の目に涙が浮かんだ。


「お母さん、ずっと言ってたよね。お父さんは私たちが嫌になって逃げたって」


「そうよ」


「でも、逃げた人が十五年間も手紙を送る?」


「……罪悪感があったんでしょう」


「じゃあ、どうして全部隠してたの?」


 恵子は答えなかった。


 窓の外では冷たい雨が降っていた。


 時計の秒針が、やけに大きく響いていた。


     *


 十五年前。


 真由が八歳だった冬。


 父は突然、家からいなくなった。


 玄関に残された革靴の跡。


 空っぽの洋服ダンス。


 そして、泣き崩れる母。


「お父さんは?」


 幼い真由が尋ねると、母は震える声で答えた。


「……もう帰ってこないの」


「どうして?」


「私たちが、いらなくなったのよ」


 真由はその言葉を信じた。


 父は冷たい人間だ。


 家族を捨てた人だ。


 母を泣かせた悪い人だ。


 それが、十五年間変わらない家族の真実だった。


 だが、大学生になった真由は、偶然見つけた手紙に疑問を抱いた。


 最初の手紙は、父が家を出た翌月。


 最後の手紙は、わずか半年前。


 どの手紙にも、同じ願いが書かれていた。


『真由に会いたい』


『誕生日おめでとう』


『高校入学、おめでとう』


『父親らしいことを何もできなくて、すまない』


 そして最後の手紙には、こうあった。


『病気が見つかった。もう長くないかもしれない。一度でいい。真由の顔が見たい』


     *


「お父さんに会いに行く」


 真由が言った。


 恵子は勢いよく顔を上げた。


「だめよ!」


「どうして!」


「あの人は信用できない!」


「会ってみなきゃわからないでしょ!」


「私は知ってるの! あの人がどんな人間だったか!」


「でも、手紙には――」


「手紙なんて、いくらでも嘘が書ける!」


 恵子の声が裏返った。


「お母さん……」


「あなたは知らないのよ! あの人が出ていった日のことを!」


 恵子は椅子に崩れ落ちた。


「あの人はね、私に言ったの。『もう限界だ』って」


「……それだけ?」


「そうよ」


「その前に何があったの?」


「……何もないわ」


「本当に?」


 恵子は唇を噛んだ。


 真由は静かに言った。


「お母さん。お父さんが悪いって、ずっと信じてきたんだよね」


「当たり前でしょう」


「でも、もし違ったら?」


「違わない!」


 恵子は叫んだ。


「私は十五年間、あの人に捨てられたと思って生きてきたのよ!」


 涙が頬を伝った。


「今さら違うなんて……そんなこと、あるはずがないでしょう!」


     *


 翌週。


 真由は父に会った。


 郊外の小さな病院。


 消毒液の匂いが漂う廊下を歩き、病室の扉を開けた。


「……お父さん?」


 ベッドの上の男が、ゆっくり顔を上げた。


 白髪。


 痩せた頬。


 細い腕。


 記憶の中の父とは、まるで別人だった。


「……真由?」


 男の目が大きく見開かれた。


「本当に……真由なのか?」


「うん」


「大きくなったな……」


 父の声が震えた。


「会いたかった」


 真由の喉が詰まった。


「……どうして、出ていったの?」


 父は長い間、黙っていた。


「お母さんには、何て聞いている?」


「私たちを捨てたって」


 父は目を閉じた。


「……そうか」


「違うの?」


「違うと言い切る資格は、俺にはない」


「どういうこと?」


 父は窓の外を見た。


「当時、会社が倒産してな。借金を抱えて、毎日酒を飲んでいた」


「……うん」


「お母さんとは、毎晩喧嘩した」


「……それで?」


「ある夜、お母さんに言われたんだ。『あなたといると、この子まで不幸になる』って」


 真由は息を呑んだ。


「俺は腹を立てて、家を飛び出した。翌日戻ったら、鍵が替わっていた」


「……え?」


「電話もつながらなかった。何度も手紙を書いた。でも返事はなかった」


「じゃあ、お父さんは……」


「いや」


 父は首を横に振った。


「最初に家を飛び出したのは俺だ。あの夜、逃げずに話し合うべきだった」


 細い指が、シーツを握った。


「お母さんも苦しかったんだと思う」


 真由は泣き出した。


「だったら、どうして……もっと早く……」


「すまない」


 父は何度も繰り返した。


「すまない、真由……」


     *


 その夜。


 真由は母に、父との会話をすべて伝えた。


「お父さん、会いたがってたよ」


「……そう」


「鍵を替えたのは、お母さんなの?」


「……ええ」


「どうして黙ってたの?」


 恵子は台所の流しを見つめた。


「あなたを守るためよ」


「何から?」


「あの人から」


「でも、お父さんは会いたがってた!」


「だから何?」


 恵子が振り返った。


「手紙を書いたから、いい父親なの? 病気になったから、かわいそうなの?」


「そんなこと言ってない!」


「あなたは知らないのよ。私がどれだけ苦労したか!」


「それはわかってる!」


「わかってない!」


 恵子は声を荒らげた。


「夜中に借金取りから電話が来て、あなたを抱いて震えていたのは私よ!」


 真由は言葉を失った。


「お父さんが悪くなかったなんて、絶対に認めない!」


 恵子の頬を涙が流れた。


「だって……そうじゃなかったら……」


 言葉が途切れた。


「……何?」


 恵子は小さく呟いた。


「私が、あなたからお父さんを奪ったことになるじゃない……」


 真由の胸が痛んだ。


 母は十五年間、父を悪い人間だと信じてきた。


 その信念があったから、一人で子どもを育てる苦しみに耐えられた。


 その信念があったから、自分の決断は正しかったと思えた。


 だから、父から手紙が届いても考えを変えられなかった。


 新しい事実を知っても、古い信念にしがみつく。


 それは、認知バイアスの一つ、信念の保守主義だった。


 けれど真由には、それを単なる心理学の言葉で片づけることはできなかった。


 目の前にいるのは、間違いを認めたくない母であると同時に、十五年間、自分を守り続けてくれた母でもあった。


     *


 三日後。


 真由は母を病院へ誘った。


「行かないわ」


「会わなくてもいい。病院まで一緒に来てほしいだけ」


「……どうして?」


「私、一人だと怖いから」


 恵子はしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


 病院に着くと、恵子は病室の前で立ち止まった。


「やっぱり帰る」


「お母さん」


「何を話せばいいかわからない」


「何も話さなくてもいいよ」


 恵子は扉を見つめた。


 十五年間。


 ずっと閉じていた扉だった。


「……私、間違っていたのかしら」


 真由は母の手を握った。


「全部が間違いだったわけじゃないよ」


「……そう?」


「お母さんが苦しかったのも、本当。お父さんが逃げたのも、本当。でも、お父さんが私を忘れてなかったのも、本当なんだよ」


 恵子の目から涙が落ちた。


「そんなにたくさんの本当があったら……何を信じればいいのよ」


「一つに決めなくても、いいんじゃないかな」


 恵子は顔を上げた。


「……一つに?」


「お父さんは悪い人だった。でも、いいところもあった。お母さんは私を守ってくれた。でも、間違えたこともあった」


 真由は泣きながら笑った。


「人間って、そういうものじゃない?」


 恵子は何も答えなかった。


 ただ、娘の手を強く握り返した。


     *


 病室の扉が、ゆっくり開いた。


 父は窓際で本を読んでいた。


 顔を上げた瞬間、動きが止まった。


「……恵子?」


 恵子は立ち尽くした。


 長い沈黙。


 廊下から、看護師の足音が聞こえる。


「……久しぶりね」


 恵子が言った。


「ああ……」


「ずいぶん、痩せたのね」


「……そうだな」


 また沈黙が落ちた。


 父は目を伏せた。


「……すまなかった」


 恵子の肩が震えた。


「謝らないでよ……」


「……え?」


「そんな簡単に謝られたら……私が十五年間、何を信じて生きてきたのか、わからなくなるじゃない……」


 父は何も言わなかった。


「私は、あなたが全部悪いって思ってた」


 涙が床に落ちた。


「そう思わないと、やっていけなかったのよ……」


「……うん」


「でも……手紙を読んだの」


 父が顔を上げた。


「全部?」


「……最後の一通だけ」


 恵子は鞄から、折り目のついた封筒を取り出した。


「何度も読んだわ」


 そして、震える声で言った。


「まだ……あなたを許せない」


「……わかってる」


「でも……」


 恵子は涙を拭った。


「あなたが真由を愛していなかったっていうのは……違ったのかもしれない」


 父は顔を覆った。


 真由も泣いていた。


 誰も、すぐには幸せになれなかった。


 十五年の空白は、たった一度の再会では埋まらない。


 失った時間も、傷つけた言葉も、なかったことにはできない。


 それでも。


 恵子は初めて、自分が信じてきた物語の外に、一歩だけ足を踏み出した。


     *


 帰り道。


 雨上がりの街に、夕陽が差していた。


「真由」


「なに?」


「私ね……まだ、あの人が悪かったと思ってる」


「うん」


「でも……それだけじゃなかったのね」


「……うん」


 恵子は空を見上げた。


「不思議ね。新しいことを知るのって、こんなに怖いのね」


 真由は母の腕に、自分の腕を絡めた。


「怖いよね」


「今までの自分が、間違っていた気がするから」


「でも、お母さん」


「なあに?」


「考えを変えることって、昔の自分を全部否定することじゃないと思う」


 恵子は娘を見た。


「……そうかしら」


「うん。知らなかったことを、今、知っただけなんだよ」


 恵子はしばらく歩き、それから小さく笑った。


「あなた、いつの間にそんなに大人になったの?」


「お母さんが育てたんでしょ」


 二人は泣きながら笑った。


 濡れたアスファルトに、夕焼けが映っている。


 恵子はふと、立ち止まった。


「……明日も、お見舞いに行こうかしら」


「え?」


「まだ、聞きたいことがあるの」


 真由は微笑んだ。


「うん。一緒に行こう」


 夕陽の中、二つの影がゆっくり伸びていった。


 人は、一度信じたことを簡単には手放せない。


 新しい証拠を突きつけられても、長年抱えてきた考えを守ろうとする。


 なぜなら、信念は単なる知識ではないからだ。


 それは時に、人生を支えてきた柱であり、自分自身の一部でもある。


 だから、信念を変えることは怖い。


 けれど――。


 信念を守るために真実を拒み続ければ、いつしか信念は、自分を守るものではなく、自分を閉じ込める檻になる。


 恵子はもう一度、夕空を見上げた。


 昨日までと同じ空。


 同じ街。


 同じ人生。


 それなのに、世界がほんの少し違って見えた。


 変わったのは、世界ではなかった。


 世界を見る、自分の心だった。


          〈完〉



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