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『正しいのは、私だった』信念バイアス

『正しいのは、私だった』


 雨が、窓を叩いていた。


 午後六時。職員室の蛍光灯が、青白く机を照らしている。


「先生、どうして僕の話を聞いてくれなかったんですか」


 その言葉を聞いた瞬間、教師の佐伯美咲は、胸の奥を細い針で刺されたような気がした。


 目の前に立つのは、中学三年生の相沢蓮。


 制服の袖は濡れ、前髪から雨粒が落ちている。


「何度も説明したでしょう、相沢くん」


 美咲は声を硬くした。


「あなたが田中くんを突き飛ばした。それは三人の生徒が証言しているの」


「だから、僕は突き飛ばしてません!」


「じゃあ、どうして田中くんは階段から落ちたの?」


「助けようとしたんです!」


「そんな都合のいい話、信じられると思う?」


 蓮の唇が震えた。


「……先生は、最初から僕が悪いって決めてる」


「決めつけてなんかいません」


「じゃあ、僕の話を一回でも信じようとしましたか?」


 美咲は答えられなかった。


 雨音だけが、二人の間を埋めた。


     *


 三日前。


 事件が起きたのは、校舎西側の階段だった。


 午後四時十五分。


 鈍い音と悲鳴が響き、田中悠斗が踊り場に倒れていた。


「先生! 相沢が田中を突き落とした!」


 駆けつけた美咲に、男子生徒が叫んだ。


「俺も見ました!」


「相沢が田中の背中を押したんです!」


 三人の証言は一致していた。


 そして蓮には、以前から問題があった。


 授業中に教師へ反論する。集団行動を嫌う。友人と衝突する。


 美咲の頭には、すぐに一つの結論が浮かんだ。


 ――やっぱり、相沢くんか。


「違います!」


 蓮は必死に叫んだ。


「田中が足を滑らせたから、俺、腕をつかもうとして!」


「落ち着きなさい」


「本当なんです!」


「三人も同じことを言っているのよ?」


「三人が言ったら、本当になるんですか!」


 その言葉に、美咲は苛立った。


「そういう反抗的な態度が問題なの!」


 蓮の顔から、すっと表情が消えた。


「……わかりました」


 それきり、何も言わなくなった。


     *


 翌日、美咲は校長室に呼ばれた。


「佐伯先生、この映像を見てください」


 校長がノートパソコンを回した。


 階段脇の防犯カメラだった。


 画面の中で、田中が階段を下りている。


 その後ろに蓮がいた。


 田中の足が滑った。


 体が後方に傾く。


 蓮が手を伸ばす。


 そして――。


「……え?」


 美咲は画面に顔を近づけた。


 蓮の手は、田中の背中を押していなかった。


 制服の袖をつかもうとしていた。


 しかし指が届かず、田中は転落した。


「相沢くんは、助けようとしていたようですね」


 校長が静かに言った。


 美咲の喉が鳴った。


「でも……三人が……」


「映像には、そう映っています」


「何かの角度で、そう見えるだけかもしれません」


 自分でも驚くほど早く、言葉が出た。


 校長が眉をひそめた。


「佐伯先生?」


「だって、あの子は以前から問題が多くて……」


「それと今回の事故に、何の関係がありますか?」


 美咲は黙った。


 校長室の時計が、かち、かち、と音を刻んでいた。


 画面の中で、蓮は何度も田中を助けようとしていた。


 それなのに美咲の頭には、別の言葉が浮かんでいた。


 ――でも、あの子なら、やりかねない。


     *


 その夜、美咲は眠れなかった。


 冷蔵庫の低い唸りが、静かな部屋に響いている。


 テーブルには、赤ペンで丸をつけた生徒指導記録。


『相沢蓮。協調性に欠ける。反抗的傾向あり』


 自分の筆跡だった。


「……私は、間違ってない」


 誰もいない部屋で呟いた。


「ちゃんと証言を聞いた。三人もいたんだから」


 けれど、映像が頭から離れない。


 蓮が伸ばした手。


 必死に開かれた指。


 そして、あの日の叫び声。


『三人が言ったら、本当になるんですか!』


「うるさい……」


 美咲は両手で耳を塞いだ。


「私は教師なのよ……!」


 教師として十七年。


 生徒を見抜く目には、自信があった。


 自分は公平だ。


 自分は正しい。


 自分は子どもを守る側の人間だ。


 その信念が、十七年間の自分を支えてきた。


 だからこそ、認められなかった。


 自分が一人の生徒を傷つけたかもしれないという事実を。


     *


 翌朝、美咲は三人の目撃者を呼んだ。


「本当に相沢くんが押したのね?」


「……はい」


 一人が答えた。


「絶対に?」


「たぶん……」


「たぶん?」


 美咲の声が鋭くなった。


 男子生徒は俯いた。


「最初に健太が『押した』って言ったから……俺も、そう見えた気がして」


「じゃあ、あなたは見ていなかったの?」


「一瞬でしたから……」


 別の生徒が小さく言った。


「先生だって、相沢ならやりそうって言ってたじゃないですか」


 美咲の呼吸が止まった。


「……私が?」


「前に言ってましたよね。『あの子はいつか大きな問題を起こす』って」


 窓の外では、雲の切れ間から陽が差し始めていた。


 なのに美咲の視界は、暗くなっていった。


 自分の言葉が、生徒たちの見方を変えた。


 そして生徒たちの証言が、自分の信念を強めた。


 誰も嘘をつこうとしていなかったのかもしれない。


 ただ、それぞれが信じたいものを見ていた。


 美咲自身も。


     *


 放課後。


 美咲は蓮を呼び止めた。


「相沢くん。少し話せる?」


「……また説教ですか」


「違うの」


 蓮は立ち止まった。


 美咲は深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


 廊下の向こうから、吹奏楽部のトランペットが聞こえた。


「防犯カメラを見ました。あなたは田中くんを助けようとしていた」


 蓮は何も言わない。


「私は……間違っていました」


「……今さら?」


 その声は、怒鳴り声よりも痛かった。


「先生、俺、三日間ずっと犯人扱いされたんですよ」


「ええ……」


「クラスのやつに、人殺しって言われた。田中は生きてるのに」


「……ごめんなさい」


「母さん、泣いてました」


 美咲の胸が締めつけられた。


「俺のこと信じてくれたの、母さんだけだった」


 蓮の目に涙が浮かんだ。


「先生、俺のこと嫌いだったでしょ」


「そんなこと……」


「じゃあ、なんで俺の話だけ聞かなかったんですか!」


 美咲は唇を噛んだ。


 否定したかった。


 自分は誰も嫌っていない。


 教師として平等に接してきた。


 そう言いたかった。


 だが、言えなかった。


「……あなたは、問題を起こす子だと思っていた」


 蓮の顔が歪んだ。


「だから、今回もあなたが悪いはずだって……」


「……それ、ひどいですよ」


「ええ」


「俺が何を言っても、信じる気なかったんじゃないですか」


「……そうだったと思う」


 蓮は制服の袖で目を拭った。


「先生、俺、ずっと考えてたんです」


「何を?」


「もし田中を助けようとしなかったら、俺、こんな目に遭わなかったのかなって」


 美咲の目から涙がこぼれた。


「……本当に、ごめんなさい」


「俺、もう誰かを助けるの、怖いです」


 その言葉が、美咲の心を深くえぐった。


     *


 一週間後。


 美咲はクラス全員の前に立った。


「今日は、皆さんに話があります」


 教室が静まった。


「相沢くんの件について、先生は間違った判断をしました」


 ざわめきが広がる。


「相沢くんは田中くんを突き落としていません。助けようとしていたんです」


「えっ……」


「マジで?」


 美咲は続けた。


「私は、相沢くんが以前から問題を起こしていたという印象だけで、今回も悪いに違いないと思いました」


 教卓を握る指が震えた。


「そして、自分の考えに合う証言ばかりを重視しました。反対の証拠が出ても、すぐには認めようとしませんでした」


 美咲は黒板に文字を書いた。


『信念バイアス』


「人は、自分が正しいと信じていることに合う話を、簡単に受け入れてしまうことがあります。逆に、信じていることに反する話は、正しくても疑ってしまう」


 一人の女子生徒が手を挙げた。


「先生でも、そうなるんですか?」


「……なります」


「じゃあ、どうすればいいんですか?」


 美咲は少し考えた。


「自分が間違っている可能性を、忘れないことだと思います」


 窓際の席で、蓮が外を見ていた。


「自分の考えを裏づける証拠だけでなく、反対の証拠も探すこと。そして……」


 美咲は蓮を見た。


「相手の言葉を、最初から嘘だと決めつけないことです」


 蓮は振り向かなかった。


     *


 その日の夕方。


 美咲が帰ろうとすると、昇降口に蓮がいた。


「先生」


「……相沢くん」


「俺、まだ許してないですから」


「うん」


「謝ったからって、全部元どおりにはならないです」


「わかってる」


 蓮は靴ひもを結び直した。


「でも……今日、みんなの前で話してくれたのは、よかったです」


 美咲は顔を上げた。


「ありがとう」


「お礼言うの、変ですよ」


「そうね」


 二人の間に、小さな沈黙が落ちた。


 蓮が扉を開ける。


 夕焼けが廊下に差し込み、床をオレンジ色に染めた。


「先生」


「なあに?」


「次に誰かが『違う』って言ったら……ちゃんと聞いてあげてください」


 美咲は頷いた。


「約束する」


 蓮は少しだけ頭を下げ、校門へ歩いていった。


 その背中を見送りながら、美咲は思った。


 人は、自分の目で世界を見ていると思っている。


 けれど本当は、心の中にある信念という色眼鏡を通して、世界を見ているのかもしれない。


 怖いのは、間違ったものを信じることだけではない。


 自分が正しいと信じている、その確信そのものが、誰かの真実を消してしまうことだ。


 夕陽が沈みかけていた。


 美咲は鞄から生徒指導記録を取り出した。


『相沢蓮。協調性に欠ける。反抗的傾向あり』


 赤い文字を、ゆっくりと見つめる。


 そして、ペンを握った。


 その記録を消すだけでは、傷つけた事実は消えない。


 それでも、まずは自分が書いた言葉を疑うことから始めようと思った。


 美咲は余白に、一行を書き加えた。


『この評価は、本当に正しいのか。』


 窓の外で、風が木々を揺らした。


 初めて、自分の正しさが少し怖くなった。


 けれど、その怖さを忘れたくないと思った。


 ――人は、信じているから正しいのではない。正しいかどうかを、問い続けなければならないのだ。


 遠くで、下校を告げるチャイムが鳴った。


 美咲はペンを置き、まだ夕陽の残る校庭を、いつまでも見つめていた。


          〈完〉



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