『マグロは光らない』信念バイアス
薄暗い準備室の片隅で、古い電気ポットが低く唸りを上げていた。
十月の終わり。日暮れとともに急激に冷え込んだ空気が、校舎の古いアルミサッシの隙間から忍び込み、足元に澱のように溜まる。時計の針は午後七時を回っていた。机の上に並べられたプリントの山は、蛍光灯の青白い光に晒され、まるで無機質な雪原のように白く冷たい。
大学院の片隅、心理統計学の研究室。
修士課程二年の佐久間怜は、湯呑みに注いだ粉末の緑茶を見つめながら、小さく息を吐いた。茶柱など立つはずもない濁った水面に、自分のやつれた顔が頼りなく揺れている。
向かいの席では、共同研究者であり後輩の桐原紬が、ノートパソコンのキーボードを苛立たしげに叩いていた。彼女の華奢な指先が弾くプラスチックの乾いた音が、静まり返った部屋に小さく跳ね返る。
「……怜さん、もう一回言いますよ」
紬が不意に手を止め、画面から視線を外した。黒縁の眼鏡の奥で、強い光を宿した瞳が怜を射抜く。
彼女がこうして語尾を硬くするときは、論理が通じない相手に辟易しているときだ。
「この実験結果、どう見ても『前提』と『結論』のつながりが成立していません。前提1、『高度なAIを導入した組織は、業務効率が向上する』。前提2、『組織Aは業務効率が向上した』。だから結論、『組織Aは高度なAIを導入している』。……これ、形式論理学で言う典型的な『後件肯定の誤謬』です。妥当な推論じゃない。高校生でも気付きます」
怜は湯呑みをデスクに置き、指先を擦り合わせた。冷え切った指先は、まるで感覚を失いかけているようだった。
「それは……形式的にはそうかもしれない。でも紬ちゃん、現場のデータを見てごらんよ。組織Aの現場インタビューも、業績の伸び率も、すべてがAIツールの導入時期と一致している。現実に組織AはAIを導入して、その結果として効率を爆発的に上げたんだ。この結論は、まぎれもない事実だよ」
「事実かどうかを問題にしてるんじゃないんです!」
紬の声が裏返り、狭い準備室に鋭く響いた。壁際のスチール棚に積まれたバインダーが、微かに共鳴したような気がした。紬は乱暴に前髪をかき上げ、深く息を吸い込む。
「私が言っているのは、論理の構造の話です。怜さんは『結論が現実として正しい(もっともらしい)』と知っているから、その結論を導くための前提の論理が無茶苦茶であることを見逃している。あるいは、見逃そうとしている。……これ、まさに私たちが研究している『信念バイアス(Belief Bias)』そのものじゃないですか!」
信念バイアス。
自らの信念や、結論が真実であるかどうかの知識に引きずられ、その議論の論理的な妥当性を正しく評価できなくなる認知の歪み。結論が自分の信じる事実と一致していれば、どれほど論理が破綻していようと「正しい推論だ」と錯覚し、逆に結論が信じがたいものであれば、論理がどれほど完璧であっても「間違っている」と拒絶してしまう人間の心の罠。
胸の奥を、細い針でちくりと刺されたような痛みが走った。
怜は曖昧に眉を寄せ、苦い笑みを浮かべた。
「……手厳しいな。でもね、論文の査読者は人間だよ。最終的な結論が社会の実情に即していなければ、どんなに論理構造が美しくても『机上の空論』で片付けられる。僕たちは現実を記述するために研究をしているんだ。記号論理学のパズルを解いているわけじゃない」
「逃げないでください」
紬の言葉は、容赦なく怜の退路を断った。
彼女は立ち上がり、怜のデスクの前に歩み寄ると、両手をドンとデスクについた。彼女の影が、怜の手元に落ちる。蛍光灯の明かりを遮られた机の上が、にわかに薄暗くなった。
「怜さん、本当は分かってるんでしょう? どうしてそんなに、この分析結果を『AI推進の成功例』として結びつけたいんですか。学術誌に通したいから? ……それとも、神崎先生の顔色を窺っているからですか?」
「紬!」
怜の声が思わず尖った。
神崎教授。この研究室を主宰し、怜の進路を実質的に握っている指導教官。そして、産業界と太いパイプを持ち、民間企業へのAI導入コンサルティングで多額の外部資金を獲得している男。
部屋を支配した沈黙の中、壁掛け時計の秒針の音だけが、まるで心臓の鼓動のように重く響いていた。カチ、カチ、カチ。
「神崎先生は関係ない」
怜は低く、自分でも驚くほど冷たい声で言った。だが、その声の底に潜む微かな震えを、自分自身で隠しきれなかった。
「関係ないわけないじゃないですか」
紬は怯まなかった。むしろ、その瞳には深い悲しみの色が滲んでいた。
「神崎先生が来週のシンポジウムで発表する基調講演の資料、怜さんが下書きを作ってる。そこで使いたいんでしょう? 『自らの研究室の最新データでも、AI導入の有効性が論理的に証明された』って。その結論ありきでデータを継ぎ接ぎして、破綻した推論に目をつぶっている。怜さん、そんなの、研究者として……」
「僕だって研究者でありたいよ!」
怜は椅子を蹴るようにして立ち上がった。キャスターが床を擦り、耳障りな悲鳴を上げる。
視線が高くなったことで、見下ろす形になった紬の肩が、びくりと跳ねた。
怜の胸の中で、押し込めていた熱い泥のような感情が噴き上がっていた。
「研究者でありたいさ。でもね、紬ちゃんみたいに優秀で、親の理解もあって、博士課程への進学費用も心配ない人間ばかりじゃないんだ! 僕は来春、企業の研究職に行かなきゃならない。推薦枠を取るには、神崎先生の推薦状が絶対に要るんだよ。先生の顔に泥を塗るようなネガティブデータや、『論理的には証明できませんでした』なんて報告書を持っていけると思うか? 先生が望んでいるのは、先生の信念を補強する『正解』なんだよ!」
ぶちまけた言葉が、冷たい空気の中に白く霧散していく。
息が荒かった。冬の訪れを告げる隙間風が、怜の熱くなった頬を容赦なく撫でていく。
紬は、見開いた目で怜を見つめていた。その瞳から、怜に対する怒りがすっと消え失せ、代わりにやり場のない困惑と痛ましさが満ちていくのが分かった。その同情の光が、何よりも怜のプライドを引き裂いた。
紬はゆっくりと視線を落とし、怜の机の端にあった一枚のプリントを指先で引き寄せた。
「……じゃあ、怜さん」
紬の声は、先ほどよりもずっと静かで、それゆえに重かった。
「この三段論法を、先生の講演資料に載せるんですか?」
彼女はプリントを怜の胸元へ突き出した。そこには、赤ペンで乱暴に丸で囲まれた三行の命題があった。
> 【前提1】すべての有毒な物質は、健康に害を及ぼす。
> 【前提2】煙草は健康に害を及ぼす。
> 【結論】したがって、煙草は有毒な物質である。
「これを見て、怜さんはどう思いますか」
「……何が言いたいんだ」
「答えてください。この推論は、論理的に正しいですか? 妥当ですか?」
怜は眉をひそめた。見慣れた、認知心理学の教科書に載っているような古典的な課題だ。
煙草は有毒である。そんなことは誰でも知っている。前提1も正しい。前提2も正しい。そして結論も、この世界における厳然たる事実だ。
だが――。
「……妥当じゃない」
怜は苦い唾を飲み込みながら、絞り出すように答えた。
「健康に害を及ぼすものが、すべて有毒な物質とは限らない。例えば暴飲暴食も、睡眠不足も、健康に害を及ぼすけれど『有毒な物質』じゃない。だから、前提2からその結論を導くことはできない。形式的に非妥当だ」
「そうですね」
紬は静かに頷いた。
「でも、被験者にこれを提示すると、実に八割以上の人が『この推論は論理的に正しい』と答えてしまう。なぜなら、『煙草は有毒である』という【結論】が、彼らの信じる現実と完全に一致しているからです」
紬は机の上のプリントを裏返し、白い裏面にペンを走らせた。キュッ、キュッ、とフェルトペンが擦れる音が準備室に響く。彼女は別の三段論法を書き殴り、怜の前に突きつけた。
> 【前提1】すべての深海魚は、光を放つ。
> 【前提2】マグロは光を放つ。
> 【結論】したがって、マグロは深海魚である。
「じゃあ、これは?」
「……妥当じゃないに決まってるだろ。マグロは光らないし、深海魚でもない」
「そう、誰でも即座に『間違っている』と答えます。でも怜さん、よく見てください」
紬は二枚の紙を並べた。
「この二つの文章、使われている単語が違うだけで、論理の骨組み――構造は完全に同一です。『すべてのAはBである。CはBである。したがってCはAである』。全く同じ欠陥を抱えた構造なんですよ」
紬の澄んだ瞳が、怜の目をまっすぐに見据えた。
「マグロの例では誰でも見抜ける間違いを、煙草の例では誰もが見落とす。なぜなら、人間は『信じたい現実』や『知っている事実』を目の前に突きつけられると、思考を止めてしまう生き物だからです。論理の正しさではなく、自分の心地よい結論かどうかで世界を裁いてしまう。……それが、私たちが暴こうとしていた人間の弱さじゃなかったんですか?」
怜は言葉を失った。
喉の奥がカラカラに渇いていた。
「怜さんが今、神崎先生のために作ろうとしている資料の論理は、まさにこの『煙草』です。『AIを入れれば効率が上がる』という、誰もが飛びつきたくなる魅力的な結論。誰もが『そうあってほしい』と願う心地よい物語。だから、データ同士の結びつきがどれほど杜撰で、都合の良い飛躍があろうと、先生も、世間も、そして怜さん自身も、それを『正しい』と思い込もうとしている」
紬は一歩、怜に近づいた。彼女の微かな体温と、淹れたての緑茶の渋い香りが鼻腔をくすぐった。
「結論がどれほど魅力的でも、筋道の通っていない嘘を世の中に差し出すのは……そんなの、研究じゃないです。それはただの、都合のいいプロパガンダです」
「……プロパガンダ」
その言葉が、怜の心に深く突き刺さった。
怜はがくりと膝の力を抜き、再び椅子に沈み込んだ。頭を抱え、両手で顔を覆う。冷えた手のひらの感触が、火照った皮膚に痛いほど染み渡る。
分かっていたのだ。
最初から、紬に指摘されるまでもなく。
神崎教授の喜ぶ顔が見たかった。手堅い推薦状が欲しかった。苦労して入学した大学院で、無難に、波風を立てずに「成功者」として卒業したかった。そのために、自分自身の専門であるはずの認知の罠に、自ら喜んで飛び込んでいたのだ。
結論が正しいのだから、プロセスなど多少歪んでいても構わない――そうやって自分を欺いていた。
「……情けないな」
指の隙間から漏れた声は、自分でも哀れなほど掠れていた。
「何が『認知バイアスを解き明かす』だ。僕自身が、一番の重症者じゃないか……」
部屋に再び沈黙が訪れた。
だが今度の沈黙は、先ほどのような刺々しいものではなかった。
窓の外で、生温い風が吹き抜けたのか、枯れ葉が擦れ合う微かな音が聞こえた。
しばらくして、衣擦れの音がした。
紬が怜のデスクの横にしゃがみ込み、怜を見上げていた。黒縁眼鏡の奥の瞳は、今はいつもの穏やかで、少し悪戯っぽい光を取り戻していた。
「怜さん」
「……何」
「私、怜さんのこと、尊敬してるんですよ。いつもデータの隅っこにある外れ値に気付いて、『この人はどうしてこんな回答をしたんだろう』って、数字の向こうにある人間の心を見ようとする人だから」
紬はそう言うと、デスクの上に散らばったプリントを丁寧に揃え始めた。トントン、と紙の端を机に打ち付ける澄んだ音が響く。
「神崎先生に怒られるの、怖いですけどね。でも、もし先生が怒ったら、私が一緒に頭を下げます。『この分析では、AI導入と業務改善の因果関係は証明できませんでした。ただの相関関係に過ぎません』って。……その代わり、別の切り口を用意しましょうよ」
「別の切り口?」
怜が顔を上げると、紬はニッと白い歯を見せて笑った。
「ええ。『AIを導入しただけで満足し、業務が形骸化した失敗事例』と『組織改革とセットで成功した事例』。この二つの差異データを綺麗にまとめ直すんです。そうすれば、ただの『AI礼賛』よりも、はるかに示唆に富んだ、骨太な発表資料になります。先生だって、本当に賢い人なら、こっちの価値を認めてくれるはずです」
怜はあっけにとられて紬の顔を見た。
「……言うのは簡単だけどな。シンポジウムまで、あと一週間しかないんだぞ」
「一週間もあります」
紬は立ち上がり、自分のデスクからエナジードリンクの缶を一本取ってきて、怜の机の上にコトンと置いた。
「今夜は徹夜ですね。論理の破綻した心地よい嘘を暴いて、泥臭くても美しい『妥当な推論』を組み立て直しましょう。……それとも怜さん、まだマグロが深海魚だって言い張りますか?」
怜は呆れたように息を吐き出し、それから、今夜初めて心からの笑みを漏らした。
胸の奥に澱のように溜まっていた重苦しい鉛が、少しだけ軽くなったような気がした。
「……誰が言い張るかよ。マグロは回遊魚だ。光ったりもしない」
「正解です」
紬が満足そうに頷く。
怜は冷え切った緑茶を一気に飲み干すと、机の上のエナジードリンクのプルタブに指をかけた。乾いた金属音が、静まり返った夜の準備室に小気味よく響く。
窓ガラスの外は、いつの間にか深い夜の帳が下りていた。
街の灯りが遠くで滲み、まるで論理の海を漂う無数の星のように瞬いている。
自分たちが信じたいものと、本当の真実との間には、いつも深い闇が横たわっている。だが、その闇を照らすのは、耳触りの良い結論ではなく、愚直なまでに積み重ねられた正しい思考の光なのだ。
「よし、紬ちゃん。最初からやり直そう」
「はい!」
二人のカタカタというキーボードの音が、冷たい秋の夜気の中に重なり合って響き始めた。その音は、先ほどよりもずっと力強く、どこまでも明瞭だった。




